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来るべき世界のために

私はそれまで
「森山大道」
「中平卓馬」
という写真家を、よく理解していなかったに違いない。
…いや、きっと今でもそうだ。

殊に中平は、とうに鬼籍に入られている。
しかも彼の作品は非常に難解で、マスコミが取り上げる機会も、ごく僅かだった。
過去にNHKで特集していたものを視た事があるが、私が知る限りではそれくらいだ。

当時のアレブレ写真と言われている写真群は、その暴力的な雰囲気と、何を主体にしたかが不明瞭で分かりづらいという二面性により、一部の熱狂的なファンを除いての支持は得られなかった。
想像するに、当時の大人たちなど、眉をひそめていたに違いない。

アレブレをリアルに知らない私も、初見での反応は良くは無かった。
苦々しさを強く感じる表現は、視覚的なDVのようで、まるで「見てはいけないものを見た」というトラウマを感じてしまっていた。

その後になり「奈良原一高」との出会いがあって「攻撃性を抑えた主観的な表現」が存在するという事を知ってからは、当時のスナップに対しての嫌悪感も消えた。
同時に、中平や森山たちの作品群については、近寄ることの無い世界へと成っていった。

大人になって味覚が変わることで、苦味も味のひとつとして受容が出来るように、当時の中平や森山の作品群も「理解」しようと努めるようになった。
しかし当時であってもまだ、私は彼らの写真を何処かで苦手に感じていた。
特に初期作品については、どうしてもその「強さ」が辛かった。
目を背けたくなるような表現に、シンパシーを感じることが出来ないでいたのだ。

昨日、神奈川県立近代美術館で開催中の
「挑発関係=中平卓馬×森山大道」
…を見てきた。

中平の作品群は、その成り立ちがどうしても理解できなく、自分の中で謎のままだった。
テレビでのドキュメンタリーを見ても謎は謎のまま深まるばかりだった。

写真展…殊にライバルであり親友でもあられたであろう森山氏との共催であれば、ややもすればその「謎」が解けるかも知れないと思ったのが、出かけた理由だったのだ。

展示そのものは、お世辞抜きで素晴らしかった。
シンプルな構成が良く、また、スライドで中平氏の「自己考察」を映していたのも、長文であるがゆえに、アラカンの身には嬉しかった。

その「長文」を最後まで見て思った事がある。
それは彼らが写真にかける情熱の凄さであり、熱量であった。

初期の頃、同年の若き二人がカメラを抱えて飛び込んでいった世界は、その「深度」というものについて並外れていた。
今でも十分にタブーであると言える表現は、若さゆえとも言えるが、非常に危険なものでもあった。
彼らはまさに、深い淵の中に共に飛び込むダイバーだったのだ。

時間の経過の中で、彼らは互いの方法論を探り、より深く潜ることを求める。
その中で中平は「なぜ植物図鑑か」という命題に辿り着く。

植物としての「個」というものは、自己を強く意識すること無く、しかし生というものを連続し全うしていくというところに存在すると思う。
そして「図鑑」というものは、その表現にあたり「対象を明確、かつ嘘無く」描くことにこそ意義があるものだと思う。

余談だが…私は「バードウォッチング」の為に使う「野鳥図鑑」を数冊持っているが、図鑑にとって重要なことは「色や形に偏りが少ないこと」だと思っている。
出会った鳥が、果たして何であるのかを知る事が、図鑑の役割であるからだ。

閑話休題。

中平にせよ森山にせよ、その創作の矛先は絶えず反時流であったように思える。
ただ、それはアンチテーゼというものではなく「自らが望む方向」を進むと、時流とは沿わなかったということに過ぎないだろう。
彼らはいつだってマインドフルであり、周囲に流されることなく創作を続けてきた。
いやむしろ「写真していた」というくらい、カメラという「先端」を突き出しながら生きてきたに違いない。

…今、若い世代の人達は、往々にして大人しく、自らのコミューンを大事にして暮らしているように思える。
それはある意味では最善の生き方のようにも見えるが、同時に強固に閉ざされた世界であり、変化をただ受け入れるだけの世界のようにも思える。
則ちこれは「意思の多分化」を拒否する事であり、新たな種を拒否するということでもある。

分化というものは文化に通ずるもの、だと勝手に思ってはいるが…これでは多分化の世界には入り込むことが出来ない。
中平と森山の「挑発関係」は、その深化が進んでいくに伴い、様々な種を蒔いていく事に繋がっていった。
彼らの特殊性はここに顕現していて、結果として日本の写真界をグローバルにしていく事に繋がっていったのだが…それもこのままでは危ういだろう。

…美術館を出ると、台風の影響なのか大雨になっていた。
入館前は、観館の後、何処に立ち寄り撮影を行おうかと思案していたのだが…この時にはもう定まっていた。

持参してきた傘を取りだし、私は雨の中を歩き出した。
海沿いの大雨は、私をかなり濡れそぼさせたけれど、海岸の風景をiPhoneで撮りつつ、気持ちは快感そのものだった。

私の体は妙に熱かった。
濡れてしまうことなど気にならないくらいに。
中平と森山…その両者の情熱が、ちゃんと私の心を通過し、発熱させてくれていたからだ。








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