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議論されない「値段」

~自粛したくない人のために~

2度目の緊急事態宣言が発出されているが,多くの人々は本格的な自粛をしていないし,またする気もない.周囲から後ろ指を指されない程度に多少の行動抑制はしようと思うが,自分の仕事や趣味,やりたいことはためらわずにやっていきたい.これが多くの人々,特に若者たちの気持ちだろう.中には「年金生活で財政を食いつぶす高齢者の命を守るために,若者が自らの人生や仕事を犠牲にするべきなのか?」という声も聞こえてくる.

着目されていない「値段」

「自粛」について多くのネット記事やマスコミで取り上げられない論点がある.それは『自粛』は決してタダではないということだ.

平時であれば誰かに強要されて外出を制限されたり,飲食を制限をされたならば,その精神的苦痛に見合った補償を求めるだろう.要するに「あなたは何万円もらったら2か月外出を控えられますか」という話である.私ならば一人暮らしをしていれば20万円ぐらい,自制のきかない小さな子供と暮らしていたら一家で50万円ぐらいはもらわないと割に合わないと考える.アウトドア派やインドア派かどうか,普段の収入,自粛の程度によって思い浮かべる金額は人それぞれだろうが,本来,外出自粛とはそのくらいの補償が発生してもおかしくないほど精神的コストをもたらす政策なのだ.しかし世の中の政治家や公衆衛生専門家,自粛賛成派はこのコストに全く目を向けていないように思われる.単純計算すると,1人10万円の補償でもって外出自粛をしてもらうとして,全国民に払わなければならない補償は10兆円にもなる.

精神的コストというのは往々にして無視されやすいが,臨床をしていると精神的ストレスが病気の悪化につながっていると感じる機会は多い.特に昨年4月以降,自分の専門領域では,他に原因が指摘できずに心因性と思われる身体症状を出した患者が普段の3倍近くに増えた時期があった.それらの人に思い当たるストレスを聞いてみると,「感染が怖い」という訴えはほとんどなく,多くが「仕事を失いそうになっている(あるいは失った)」,「子供を遊ばせられる場所がない」,「生活の先が見通せない」といった自粛による精神的ストレスや経済危機が発症の大きな要因になっているようだった.病気の診察や検査にはそれだけでも数万円を出費することになるし,症状が出ている間は仕事ができないことも多く,彼らにとっては自粛は単に精神的コストが発生しただけではなく,実際に金銭的な損失も発生してしまったことになる.そこまでの症状を出さない人でも,多くの人が「シャムズ」といわれるように精神的におかしくなったり,家庭内で喧嘩が増える,などの一見すると金額にしづらい多大な精神的コストを支払う羽目になったのである.

議論が避けられている「値段」

一方で意図的に議論が控えられているコストもある.それは「命の値段」である.昨年末から私はTwitterで(批判が出ることは分かっているので)ほぼ一方的に「命の選別」に関する発信を続けてきた.仕事柄,コロナ前から仕事の中で「命の選別」に関わる深刻な意思決定に関わることもよくあり,日常の判断に影響する可能性もあることから,申し訳ないがそれに対するネット上の反応や批判には一切目を通していない.また同時にネットで発信しているような意見を,そのまま現実の仕事で誰かに押し付けたり表明することもほぼない.この件に関してはあくまでネットはネット上,仕事は仕事上として割り切った上で発信している.

しかし,現在の「行動変容」が効かなくなって困惑している政府を目の前にすると,「自粛」を考えるにあたり「命の値段」の議論は避けて通れないのではないかという思いを強くするばかりだ.

平時であれば「全ての命は平等で金銭に変えられない」という言説は誰に批判されることもなく,倫理的で「正しく」,当たり前のこととして多くの人が受け入れるだろう.しかし,1年近く何らかの自粛生活を求められ,職を失う人や夢をあきらめる人も続出し,コロナ病床もひっ迫する中で,この「きれい事」がもはや成り立たなくなっている現実がある.

最近頻繁に報道されているように,医療逼迫が生じている地域では,寿命が近い高齢者には「回復してもADLが保てない」,「体力的に治療に耐えられない」などのもっともな理由を提示し,本人や家族を誘導しながら延命治療をあきらめてもらっている現状があるし,施設入所者や病院入院患者でクラスターが発生した場合は,県の入院調整機関の方針で転院させずにその施設に留めおく(≒重症治療や専門治療が受けられない)という政策を行っているところも多い.すでに昨年12月頃から年齢やADLに基づいた「命の選別」「命の重みづけ」は行われているのである.一方でその選別の基準はあいまいで,実質的に担当医や入院調整機関担当者の価値観に任されており,まともに公開で議論を行っているところは多くないだろう.

しかし,多くの医療関係者の間で共通する考え方の傾向として,「健康余命が短いと思われる人の命の価値は低く,健康余命が長いと期待される人の命の価値は高い」という原則がある.これは治療の費用対効果とも関わる話で,治療をしても寝たきりになって患者が望むような社会生活が送れなくなれば,自らが感染リスクをとって,莫大な費用をかけてまで治療する意味はあまりないと考えるからである.

医療知識のない一般の人にとっても,「高齢者の命の価値は低く,若年者の命の価値は高い」という考えは,非常時においては受け入れられる考え方だろう.難破船から脱出できる救命いかだの数が限られる中,極限の状態に迫られて,誰を優先して避難させるべきかと考えたとき,多くの人は高齢者の命よりも若者や子供の命を優先させるだろう.我々には「子孫を残して種を繋いでいく」という動物としての本能が刻み込まれており,普段はそういう本能は「倫理」「道徳」という覆いに隠されているが,危機的な状況になれば本能がむき出しになるのである.

なお,平時でも法律の世界では常に命には値段がつけられている.逸失利益という視点で賠償額は計算されており,同じ年収ならば高齢者の命は低く,若年者の命の価値は高く設定されている現状もある.同じ人一人を轢き殺しても,医学生を轢いたときと余命数ヶ月の進行がんの高齢者を轢いたときでは賠償額は何十倍も異なるという話はよく耳にする話だ.

コロナ禍では自粛に伴う経済の低迷によって自殺者数の増加も懸念されている.最近では若年女性の自殺も相次いでいる.初期段階では皆が一致団結して「高齢者の命」も「若者の命」も守ることができる「ウイルス封じ込め作戦」をとることは可能だったかもしれないが,現状のような感染状況では「感染を徹底的に抑制して経済を回す」という方針をとるためには,数か月以上もの厳しい自粛生活が必要になるだろうし,それも東京オリンピックが行われれば一瞬で崩壊する.今の日本でこの両者が両立する都合の良い政策はもはや取りえないことは明白だ.

都合の良い解決策が見えない長期的な危機の中で,「高齢者の命」か「若者の命」かという問いを突き付けられたときに,「命の値段」のことを無視して多くの一般大衆,特に若者たちに受け入れられ,若者たちの行動変容につながるメッセージを発信することは極めて難しい.

若者たちにこの厳しい「命の値段」の差を乗り越え,自ら損失を出してまで自粛する気にさせるためには,それによって利益を得る高齢者や医療従事者,あるいは国家からそれ相応の見返りや補償が必要であろう.

自粛しないのは,「議論されない値段」を考慮すると合理的な考え方かもしれない

若者や大衆はバカではない.多くの人は思っても口にはしないし,そもそも言語化できない人も多いけれども,このような「自粛」や「命」に関わる見えない「値段」のこともなんとなく考えながら,自分や家族が重症化するリスクも考えながら,何が自分たちにとって最良の選択肢なのか,自粛要請を受け入れることの費用対効果は良いのか,をふわっとした「感覚」として感じ取りながら行動している.その結果が今回の「本格的な自粛はしない」という行動につながっているのであり,単に周知方法を工夫したところで行動変容が起こるとは思えない.学者が大衆を見下すような態度で若者の行動が「正常化バイアス」だけだと思っていたら本質を見誤るだろう.

1月中旬現在,新型コロナの死者数は5000人以下である.その95%以上が60歳以上であり,この基準を採用するのが適切かどうかは分からないが,法律の観点で命の値段を計算すれば逸失利益は一人500万円にも満たないだろう.一方で自粛の精神的コストは1人10万円と少なめに見積もっても,全国民で10兆円にもなる.「自粛の値段」と比較する際には,「命の値段」に若年者の後遺症や感染者の治療費などの値段も加える必要があるが,合算してもせいぜい数千億円程度だろう.数千億と10兆円ならどちらが大きいかは一目瞭然である.政府の補正予算をみても,感染防止対策や医療体制拡充のための予算と,経済維持のための予算を比較すると後者が圧倒的に多い.この事実は非倫理的で「言ってはいけない」議論であることに間違いはないが,頭の片隅には置いておく必要のある数字ではある.

「高齢者の命を守るために若者が行動を自粛する」ということは,果たして「命の値段」そして「自粛の値段」に見あったやり方なのだろうか?もっと効率的で費用対効果に優れた政策は取り得ないのか?事態が長期化する中で,経済的あるいは精神的に追い詰められていく人も多い中で,「きれい事」や「言ってはいけない」に囚われずに,本質をとらえて社会的合意を形成していく努力が今,為政者には求められていると思う.

それでも両立をあきらめないでほしい

最後に自粛したくない若者の皆さんへ.見えないコストをちゃんと考えれば,金銭的には圧倒的に自粛する方が効率が悪い.皆さんのご判断の通りです.でも「命の選別」は非常に厳しい現場で,本人や家族,医療従事者には場合によっては死にたくなるほどつらい選択をしないといけない.また皆さん若者の中にも救急医療の逼迫で「命の選別」のあおりを受けてしまう不幸な人が出るかもしれません.政府や首長の要求するような全面的な自粛はできなくても,ちょっとした工夫で費用対効果高く,感染防止対策を取っていくことはできると思うのです.

たとえば飲食店での飲食では先に料理を食べて,食べ終わってからマスクをしながら会話する.飲食店に行くなと言われるほど精神的には辛くないでしょう.金銭コストはゼロです.職場で直接会話ではなくビジネスチャットを使ったり,定期的に窓を開けて換気したりするのも大して金銭コストはかからない.会話内容が記録に残り,後で振り返りやすくもなる.勤務体系をフレックスにして,旅行も平日に家族のみで行くなどの工夫をすれば,値段も安く,人との接触も減らすことができる.旅館の経営も守ることができる.

そういうちょっとした工夫を積み重ねながら持続可能な対策をしていくことで,多くの人の感染を防ぐことができるはずです.また,直接耳には聞こえてくることは少ないけれども,為政者の一方的な発信とは異なり,多くの人が皆さんの感染予防の活動に心の中では感謝しているということもまた知ってもらえると有難いです.私自身も皆さんと同様に日常生活で感染リスクを低くしながらも,制限しすぎない,持続可能な「程よい自粛」の方法を常に模索していきたいと思います.

若者よ,みんなありがとう.


(補足:少し考えていることを図にしてみました)

生命の価値


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