忽那先生,みんなそんなことは分かってます

現状はほとんど焼け石に水なのですが,「一応対策してますよ」という姿勢を示すために高齢者やハイリスク者の外出自粛要請が大阪府や政府から出されていています.大阪府の政策にも一部関わっている感染症専門家として,忽那先生がその実効性に科学的観点から疑問を呈する立場は理解できます.

実際のところ行政のアナウンスに反応するような高齢者はもともとコロナを怖がっており,感染者数の激増を見てそれなりの対策をしているので,外出自粛要請をしても大した効果がないこと,ハイリスク行動を取る高齢者はそもそもアナウンスをしたところで要請に応じることはないことは皆生活実感としてよくわかっていることです.また記事で指摘されているように,重症化したり命を落とす高齢者は「出歩く高齢者」ではなく「病院や施設にいる高齢者」であることから,結局は上流を抑えなければ重症者や死者は減らせないことには多くの人が内心気づいていると思います.

しかし巷ではこの政策に大歓迎の人が多いんですよね.それも確信犯的に.単に「考えが浅い大衆が騙されているだけ」とリベラル勢は安易に結論付けていますが,私はもっと背景に大きな大衆の心理的な動きを感じます.

すなわち多くの人がこの政策を歓迎する背景に「一応対策をしたんだから,それでも死ぬ人はもともと死ぬ運命の人だったか,リスクを適切にコントロールできなかった自業自得な人.経済を回して頑張っている私たちは悪くないよね」という考えがあるように思うのです.自分の行動を正当化する一種の言い訳みたいなものかもしれません.

私はこのような考えは悪いこととは思いませんし,自身もその考えにかなり近いです.

もっとも私の場合は,コロナ前からいわゆる「お看取り病院」と呼ばれる療養型病院でバイトしていて,風邪やインフルエンザをきっかけに肺炎や多臓器不全になって衰弱した高齢者が毎週のようにバタバタと死ぬ場面を数多く看取ってきたので(注)「そういうことは世の常じゃない?」と思っているというのもあるのですが,いずれにしても2020年には感染対策をしないとかなりヒステリックな反応を示していた大衆が,老若男女ともにそういう考え方に寄って来たなということは最近強く感じています.

(注)こういう終末期の実態は医療者でも一部しか知らないのが問題で,急性期病院だけに長く勤めている人やオピニオンリーダーと呼ばれる人々は,そういう医療の側面を全く知らない人も多いのです.急性期病院だけにいると「いりょう」の「い」ぐらいしか見ていないんだよ,ということを私は声を大にして言いたいですね.

その証拠に医療提供体制が限界になってきても,今回は「命が失われる!」というヒステリックな声は医療介護関係者からは聞こえても,一般市民からは「早く5類にすればいいじゃん」という声しか聞こえてきません.5類にすればコロナはもっと広がることは確実ですが,それを許容してもいいというのが大衆からのメッセージなのです.


ウィズコロナの本質は「感染対策と経済対策を両立させること」ではなく「感染症をどのように自分の中に価値付けるか」ということです

多くの人が感染症による弱者の死を日常として受け入れ,それはそれとして自分たちの目の前の人生のために経済活動をしていく,その価値観の変化についていけていないのは医療介護従事者や厚労省の方ではないか.

忽那先生は直近の記事で

私自身は「社会機能を維持するためには高齢者や基礎疾患のある人はコロナで死んでも仕方ない」という考えよりも「周りの誰かを守るために自身の行動は一時的に多少制限されても仕方ない」という立場にありますが、どちらが正しいというものではなく、日本人の国民性、死生観が問われるところかと思います。

と述べていてこれは絶対的正しさなのではなく,考え方の違いであることを指摘されています.これは意見を表明された忽那先生にとっては意外かもしれませんが,裏を返せば,医療介護従事者が厳しい感染対策でプライベートが制限されて苦しむのは,感染対策をしない世間のせいではなく,感染対策を重視する考え方を選んだ医療界自身の責任だと暗に主張しているということでもあります.少なくとも世間はそういう見方をするようになってきています.そして,その空気を敏感に感じ取っている医療従事者は少なからずいるように私には思えます.

このような現状に耐えられない人は,実際のところ院内にも数多くいることでしょう.医療介護従事者もプライベートでは家庭があり,消費や子育てを介して経済を回している側面もあります.「いのちを守るために感染対策をしましょう!」という掛け声が一般社会どころか,病院内ですら響かなくなってきているのがこの第7波ではないかという気がしています.

そもそも「医療とは人の命を救うためのものですか?」

交通事故に対する救急医療など,その問いを深く考えなくてもいい分野がまだ残されている一方で,多くの疾患が生活習慣と密接な関連を持ち,根治よりも病気と付き合っていくことが求められる昨今,この問いを根本から考え直さないといけない場面が増えています.

私は「医療とは人生をより良くするための手段である」という考えの人間ですが,究極的には「医療とは求める人がいるから成立する産業である」という考え方の人もいます.そういう人々にとっては感染対策は絶対しないといけないものではなく,「求める人が多ければするものである」「しておけばクレームが入らないから」ぐらいの感覚を持っていてもおかしくはないのです.医療の絶対的な目的がはっきりしない中で,感染症専門家と一般医家との間の価値観の乖離も徐々に目立ってきているように最近は思います.


価値観の離散はとめどなく続く

アメリカ政治に由来する「分断」という言葉が使われるようになって久しいですが,コロナ禍は「いのちか経済か」「高齢者か若者か」「世間体か自らの夢か」など究極の二択を多くの人に問い続けたせいで,日本でも確実に「分断」が加速したと思います.しかし,最近は「分断」が各方面で進みすぎて「離散」といった方がいいような状況が生まれつつあるようにも思います.

離散した価値観の中で「○○のために,○○を頑張りましょう,行動制限しましょう」といったメッセージがどこまで有効なのか.2020年のような協力は得られないと思いますし,ある意味確信犯的に「やっている感」を出すために高齢者外出自粛要請を出した行政側の方が,したたかではないかと思ったりする今日このごろです.


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