見出し画像

22

野見山暁治さんのドキュメンタリー番組を見た。まだご存命だということにまず驚いたが、野見山さんは現在百一歳(収録当時は百歳)、画家だが、私は非常に面白い文章を書かれる書き手として認識している。

野見山さんは同郷も同郷、もう「あそこやろ?」というくらい近くのご出身で、東京芸大の教授を務められ、文化勲章を受けられたくらいの凄い方なのだが、同じ学校で十八まで過ごしていた間に野見山さんについて聞いたことはない。目ぼしい特産品も有名人もない街からこれだけの人が出たとなれば自分の手柄のように吹聴する人がいてもおかしくないはずなのに、郷土の偉人とか著名な先輩とかいう文脈で話に出たことがない。だからあの街を出て二十年ほども経ってからたまたま野見山さんの本を手に取り、いきなり「あそこやろ?」という風景について書かれていた(しかも本当に面白い)のを見つけたときには結構な衝撃だった。

なんで誰も教えてくれなかったのだ。まずそう思った。半端な受験指導なんかより、野見山さんの存在を知らせておいてもらったほうが、生きる上でよほど有益な指針が得られたはずなのに。しかし冷静になってみれば、野見山さんをめぐる世間の反応も理解できないことはない。

野見山さんの父は息子が画家になることに最後まで反対していらっしゃったという。野見山さんの父は炭坑主で、野見山さんご自身、1930年代に九州の田舎から東京芸大に進学なさったという事実からしてとんでもなく裕福な家の出であることが推察できる(麻生太郎の麻生家みたいなものですな)。反対しているにもかかわらず、庶民感覚からかけ離れた投資をしてまで息子を芸大に進ませたのは、お父さんご自身が「画家=応接間に飾るのにいいわね、とデパートで買われるような絵を描く人」だと思い込んでおられたからだそうで、不本意ではあるがそれなら仕事として許容範囲だという判断だったらしい。でも野見山さんが追求したのは黒々した炭鉱街の原風景だった。そりゃ噛み合うわけがない。つまり、野見山さんのお父さんにしろ、おそらくは当の炭鉱で暮らしている人々にしろ、「ゴッホより普通にラッセンが好き」だったわけで、そのために野見山さんは以降お金には苦労なさったとおっしゃっているし、地元で言及がなかったのもそういう理由からだと思う。だがそういうことを語る野見山さんは実に力が抜けて、飄々としていらっしゃって、だからこそ私は信頼に値する人だと思っている。

その野見山さんが番組でおっしゃっていたことが非常に興味深かった。百歳を迎え、アトリエに保管してある数々の絵画を寄贈の形で処分なさろうとしていたのだが、引っ張り出して見ても絵の上下が分からない。描いた本人が分からない。それについて、そもそも上下の感覚が希薄なのだと野見山さんはおっしゃった。たった一日で山ができ、穴ができ、昨日までそこにあった風景が根底から作り替えられる様を見ながら育っているから、あるべき当然の姿が分からない。長い年月をかけて隆起した山や谷、大地にどっしりと根を下ろした大木みたいなイメージが自分の中にない。

その言葉に、スパーンと的の中央を射抜かれたような感覚を覚えた。そうなのだ。あの街は自然ではない。人は少なく緑に覆われているが長閑ではない。都会ではないがいわゆる田舎でもない。一言で言うと得体が知れない。小学校の頃、この町のいいところについてという作文を書かされる時などは空気を読んで「緑豊かな山々」「爽やかな清流」といった当たり障りのないワードでお茶を濁していたが、そんなのは嘘だとはっきり自覚していたし、この風景についてちゃんと言おうとすると本当に訳が分からなくなる、ということだけを私も感じていた。

ただ野見山さんがあの街にいた頃と私のいた頃とでは六十年の開きがある。野見山さんの頃に生きて盛んに活動していたあの巨大な生き物は、私の頃には死んでいた。蹂躙の痕跡だけを残して役目を終えていた。ただ、まだ朽ち果て風化するほどの時間は経過しておらず、その全体は乾きかけたかさぶたのようなもので覆われ、ところどころ膿も出ていた。腐臭もしていて蛆が湧いていた。これは一体何なのか、と尋ねても誰も正確なことは教えてくれなかった。隠しているわけでもないが、大人たちにしろ私と同じでちゃんと説明するための言葉を持たなかったのだろう。知らない、言えない、分からない。茫漠とした不穏な塊は錆びた有刺鉄線で囲まれ、ただ「近付くな」とだけ言われていた。

この訳の分からなさはやはり私にとっても原風景として死ぬまで付きまとうものだろうと思う。どこまで行っても中身は見えない。何が何だか分からない。だけど消えない。だから、角度は違えど、やはり同じ風景に付きまとわれながら、それを生涯かけて見据え続けていらっしゃる野見山さんの存在は私にとって非常に心強いものだ。

故郷に帰り、筑豊富士と呼ばれる忠隈のボタ山を見るたびに笑ってしまう。子供の絵のような単純な形のあの山は、今やもこもこした緑の低木に覆われ、人のいいお爺さんみたいな顔をしている。あの街のかさぶたもすでに剥がれて、福岡のベッドタウン風を吹かせている。でもあの山は燃えていたのだ。あの土の下には何が隠れているか分からないのだ。幾ら表を繕っても、その気配だけは今でも濃厚に漂っていると私は思うのだけれど。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?