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手記『鬱々』

よく身の回りは自分の苦手なものばかりでできているのではないかと思わされます。(それも意図的に。)

アルバイトの接客なんかはひどいものです。それは単に作業が難しいからとか、人が嫌いだからとかではなく、心の持ち様としてのことです。

申し訳なくは思いますが、客として訪れる彼らの目はほとんど死んでいます。意識を向けずともたちまち生気を吸われてしまっているのではないかと思うほどです。

そして、たまに店員を人として認識してくれず、私を機械かのように思い、利己的な感情をぶつけてくる者もいます。(いや、機械にすら感情をぶつけることはあまり無いと思えるのでそう思うと恐ろしいものです。)そういう人を見ると自然と心の陰が癌細胞のように、作ろうとした善意の細胞のはたらきを妨害しようとしてしまうのです。

でも、砂の中の砂金のような、多くの中でもごくたまにキラキラと光った笑顔と挨拶が垣間見える人もいます。私はそういう人を見るたびに、いままでむげに扱ってきたものごとに羞恥を覚えました。

苦手なものもいくらやらなければいけないとはいえ、意義がよくわからず俄かに興が覚めてしまうのです。

私はそんな日々の鬱々とした感情の連鎖と積載から、本を読むことも、ラジオを聴くことも、坂道を追うことすら気が向かなくなってしまいました。私は代わりとしてゲームに明け暮れましたが、楽しいからやっているのではなく、ただドーパミンとやらなんやら快楽が欲しくて飛びついていたに過ぎなかったのです。(酒やたばこが好きではなかったことが幸いに思えます。)気づくたびに羞恥よりもさらに凄惨の思いが募ってきました。

本が読みたいです。カフェにも行きたいです。絵をかいたり、文章を書いたり惜しみなく自分自身を表現していたいです。

残念ながら、今の私の考えでは、辛抱は必要だというのが答えです。しかしその辛抱を一つずつ減らしていく努力をしようというのも真意だと思っています。

23時15分、私は風呂に入りながらYouTubeである本の紹介動画を観ていました。

「あなたは一日に30分でも、自分の好きなことに時間を費やしているか?」

心の余裕がなくなってしまったことに気づき、この質問を投げられハッとしました。本というのは先人の知恵であり、心のよりどころとするのに最も手軽で簡単なものの一つであると思いました。


よく身の回りは自分の苦手なものばかりでできているのではないかと思わされます。(それも意図的に。)

だからこそ、より多くの人に心の逃げ道を持ってほしいのです。

私はまたバイトの休みの連絡をいれました。


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