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まわりまわって、シンプルな答え。

先日、石垣と道路の間の掃除していました。
石垣が長くて、延々と。
まだ草が生えづらく、落ち葉も少ないので、楽な方です。

前半は、葉っぱや花柄が落ちているだけで、ただ箒で掃くだけですっかりきれいになりました。ところが後半は、アルファルトやコンクリート、石垣の隙間から生えている草が多く、砂や土の堆積も、堆積した土や砂に根を張っている草も多く、箒だけでは太刀打ちできない。
スコップや草掻きのような金属製の道具を持ち出しました。

ここはずいぶんと長いこと、草取りと落ち葉掃きくらいしかしていなかったので、かなりの土や砂の量になっていて、一輪車で2杯分くらいになりました。


自分でも思ってもみなかったのですが、その土や砂を取り除いて、最後に、箒でさらに掃いていたとき、はたと!心をほり下げること、自分と向きあうことと、すごく関連しているなあと思ったのです。

外構の掃除は、どこまでやったら終わり、というのがないです。
まあ、それは究極、全てのことに言えることなのですが・・
新築のお家の室内であれば、ゴミや埃を完全に取った、ということがある程度簡単にできます。(とはいえ、「補修屋さん」というお仕事が生まれて久しいのを考えると、そりゃあ虫眼鏡で見たら、大差ないかも知れないですが)
外構は、そういう室内の掃除とは全く違う。草取りも、掃き掃除も、ちょっとした剪定も、「終わり」や「完成」は自分で決める領域。
今回のように、少し劣化したようなコンクリートだと、箒で掃けば掃くほど、硬い面があらわになって、きれいになっていく感じが気持ちよく、たとえばもっときれいにしようとするならば、水洗いすれば、載っていた砂などがもっともっときれいに取り除けるなんて思い浮かぶ‥そんなことは極端な話しで、もちろんそこまでしようともしなかったし、する必要なんてないのですが。

路面の劣化がひどく、下の土が見えてしまっている部分もあって、そういう部分ともなれば尚のこと、掃けば吐くほどキリなく土や砂が出てきてしまう。
どんどん細かい砂が取り除かれていくさまがおもしろくなってしまって、ついつい幾らでも掃いてしまい、キリ無くやりそうになりました。
で、ふと、思った・・
掃けば掃くほど、路面に乗っている砂だけではなく、コンクリートやアスファルトの表面も、微かにだけれど削れている。路面の劣化がひどいほど、掃けば掃くほど、舗装面からも舗装材がどんどん削れて、舗装面は少しづつ薄くなる。穴はといえば、穴のヘリから削れていき、どんどん穴が広がり、穴の中の土の部分はどんどん凹みが深くなり、ここを塞がない限り、その土の面から生えてくる草はさらに深く根を張って、生えてくることになるんだよな・・と。

コンクリートの上に乗っていた土や砂に生えていた草は、簡単に抜けるのですが、隙間から生えている草は抜けづらいのが多いです。地上に生え出している部分も小さいのはつまみにくいし、だからと言って、不用意に草抜き器具を差し込んでグリグリしたりしたら、穴を広げかねない。
「完璧にやろう」としすぎるほど、目に見えて根深い草を生えさせる可能性を広げている、ということにもなってしまうんじゃないか、という気がしてきたのです。

何千万円も費やして、わたしは、言うなれば、自分の心でこれをやってきたんじゃないか・・
そのことを後悔しているわけじゃないです。でも、外構の掃除って、俯瞰的に眺めてみたとき、「概ね、きれいだな」と感じる状態がわたしは掃除の終わりときだなと思っています。自分の内側への見つめかたも、そういう見方だって大切なんじゃないかという気がしてきました。

この1年半、自分に問いかけて、拗れをほどいていくことは、拗れまくったわたしみたいな人間にはすごく必要で、効果的なことだった。自分で自分に問いかける、自分で自分を紐解き、自分を知っていくことの大切さに気づけなかったら、今もわたしは常に葛藤ばかりだったろうと思います。

葛藤するのは、私の場合、典型的で、「完璧主義」なせい。
「完全無欠な正解」というものがあると信じ込み、いつかきっとそれは見つかる、だって、あるんだもの・・あるのに見つからないのは、わたしが見つけられていないから・・そんな想いになって、なんとしてでも見つけようとしてしまう。そのうち、疲れてくる。どうしてこんなに見つけられないんだろう、自分がダメなせいなんじゃないか、きっと、自分が悪いんだ、と。そのうち、このメソッドがこの先生が合わないんじゃないか、ダメなんじゃないかと、新たな先生やメソッドを見つけようとする。その先には、世の中のせいにしてみたくなったりしかねない恐ろしさ。罪悪感でいっぱいなくせに、同時に心の中で周りを責めて、それが表に出ないようにと必死に取り繕う・・そうやってずいぶん長いこと過ごしてきた。
一事が万事そうだと思いこむ性質もそう。一度耳にしたその言葉を全てに当てはめてしまうことがよくある。これもきっと完璧主義のもうひとつの現れ方。
YESかNO、白か黒しかないという思考も似ている。いい換えれば、二元論的思考。そこからは、自意識過剰、とか、シンデレラ症候群、とか、ポジティブシンキング信仰、なども生まれてしまう性質。

で、気づいた。

「完成」を「完璧に」求めすぎたら、それは傷を深めることにもつながって、もはや自ら無意識のうちに「完成」を遠のかせてしまうことすらあるということなのだと。
そういえば、何年か前にもそんなことを思ったのにな。
完全に忘れていた。

自分の敏感さを完全にメリットとしてみていました。
メリットとしてのみそれを見て、とても大切にしていました。
享受していたとも言えるほどに。

敏感さは、メリットとしてみれば、「繊細」。芸術的感性など、自分にも周りにも幸せや喜びをもたらすものとして花開く時もある。同時に、デメリットとしてみれば、「神経質」。脳や思考が拗れたり、病んだりする原因ともなる。どっちがいい悪いの問題じゃないですよね。
自分の中の、スルー力、鈍感力を、完全に、わたしの世界の隅っこに追いやっていました。だけれども、スルー力、鈍感力は俯瞰する力になることもある。力を発揮することもあるんじゃないか。

今、スルー力や鈍感力ってものを感じなおすと、かわいいやつらに思える。
自分の中で、あんなに無きものとしていたやつらを。
なんだ ‥嫌うようなものなんかじゃなかった。
ユーモアもあって、無邪気さもある、気のいいやつらっていってもいいくらいじゃないか。

敏感力と鈍感力、どちらがいいなんてもんじゃなく、
言うなれば、お箸かフォークか、タブレットかPCか、花束かアレンジメントか、そんなことみたいですね。
あ、ということは・・・
完璧を追求することも、不完全を受け入れるっていうことも、結局、
おんなじことじゃないの?!


メチャクチャ遠回りをして、たどり着くシンプルな答え。
これでよかった。
こうだからよかった。
うん、すごく、よかった。

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