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EchoesofLife 初日 A席から…視たものは

言葉が降ってくる
言葉が音になって降ってくる
言葉になった音が音符になって降ってくる
氷の上に五線譜が描かれる
川の流れのように音符が流れてゆく
流れに身を任せるように
流れに逆流するように
羽生結弦が旋律を奏でる
音符を拾う激しい舞だった
1音1符逃さないステップも指先も。

A席から私が見ているような五線譜も降り積もり行く音符も羽生くんには見えていないはず。目印の小さな灯だけがわずかな頼りに見えた。羽生くんが体にたたき込んだ正確なトレースが描く奇跡のような舞。羽生結弦の技術、才能の人だと片付けてしまってはならない実力の上にあるたゆまなる努力の結晶。
空間も平面も音符で溢れた。音の風景が見えた。降り注ぐ音符に埋もれることない羽生結弦の存在感が際立つ。なんて美しい人なのだろう。

物語の世界に入ろう。
Novaが背負った再生する力は生かされた者の義務か、使命か。臓器と神経を襲う痛み、心を締め付ける苦痛。生かされることが恐怖とさえ思う世界で「わたし」は強い。

無表情な数多の兵隊人形の行進を誰が止められただろう。触れることなど無いはずの実態が時折「わたし」にぶつかるように気配がすり抜けていく。未練を残した強い魂にはもしかしたら重力があるのかもしれない。生きたいんだ!叫びたい思いが風を巻き起こしたのかもしれない。勝利を信じた死に向かう行進。
無表情な仮面の下に一切の幸せを捨て、ただ思い出のみの幸せを抱いて、国の正義を信じ、自分の正義を信じ戦場へ向かうのか。
そこに存在した世界が他人事である安堵の上に私は生きているように思う。
せめて生かされていると考える自分でありたいと思う。

ちょうど1年前のさいたま新都心、さいたまスーパーアリーナへの通路で『翔んで埼玉 琵琶湖より愛を込めて』のズラリと並んだ宣伝版に迎えられた。
公開されて見たその映画で、数多の飛び出し坊やのとび太が、戦いに散った残骸に私は泣いた。茶番劇と制作陣自ら卑下した映画になぜ泣くと言われても、誰かを守りきった覚悟に泣いた。
兵隊人形はとび太の最期と重なった。私は、琵琶湖民だ。

セトリに並んだ曲を、その背景にある物語を私はまだ知らない。詳しい方のレクチャーを受けなければ。

初日私はA席から羽生結弦だけを追おうと決めていた。モニターに視線を移した瞬間に見逃すものがあるから、肉眼で羽生くんだけを追い続けた。

幕裏にはけることなく滑り続ける羽生くん、見ないと決めてはいたけれど、わずかな曲間を座り込んで待つ羽生くんが顔を伏せたまま動かないので気になってしまってモニターへ目を向けた。映し出しているのは肩が大きく呼吸している姿、胸の奥がキュンとした。下からその表情を覗き込みたい衝動と見ちゃいけない自制。あそこに座り込んでいるのはNovaじゃなくて羽生結弦だ。 息を整える姿をさらけ出している羽生くんだ。なんか無防備に見えた。思った。今皆きっと羽生結弦を愛しいと感じてるって。

中日の今日ははライブビューイングで観る。たまアリ傍の映画館は私にとってはもはや場外モニターだ(と思ってる)。
今日も今日限りの羽生結弦に会いに行く。初日なんか凄いものを見た、その凄いを言葉で具体化したい宿題を勝手に抱えてしまった。

それで読み始めた『生誕の災厄』だけれど少ししか進まない。より難解な読解が待っていた。
羽生くん、いったい貴方の脳内はどんな処理能力を持っているのですか。

集英社にて




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