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成瀬スタンプラリーは17000歩②思い出にどっぷり浸る

②だというのに、いっきにあと1000歩のところまで飛んでいる。長すぎて端折ってしまった。

ときめき坂っていいね
本日お休み塩パン買えず
ただコンビニなのに
成瀬がいたから

当時膳所駅から西武への坂道にまだ名前は無かった、たぶん。当時とは西武ができて間もない頃だと思う、記憶が曖昧なほど昔むかしの話。
もはやスタンプラリーについてではなく、思いきり思い出に浸る話になるが。
そこには小さな旅行代理店があって、中途採用の私は研修のため2ヶ月ほど膳所まで通勤していた。ちなみに、給与明細は17万円振り込まれたとしたら、内5万円は交通費だ。こういうのをほんとう、どんだけ〜と言うんだ。車、私鉄、国鉄(そう、国鉄の時代なんだ)そのぐらいの距離だ。スタンプラリー同行中の息子が、ここまで通っていたのかと驚いて、どうやって通っていたのかと聞かれた。だから、車、私鉄、国鉄···。

当時は入国ビザが必要だった頃で、韓国、台湾、フィリピン、ほぼ毎日大阪の各領事館まで申請に行った。申請用紙は英文タイプライターで仕上げる。申請して翌日ピックアップして、また申請分出して、また翌日ビックアップ。もうループだ。それほどの数の渡航者があった。目的が何だとか、たぶん今では考えられないような、やっぱりそういう時代だった。
中には東京在住の方がツアーに交じることがあった。パスポートを預からねばならないし、時間はないしの時といったら、猫印の宅配便しかない。独占企業だった頃だ。取扱店は今ではコンビニが当たり前だけれど、当時は米屋だ。
急を要するのだからその方の勤務先へ電話をかけた。そして聞かれた。どこに行けば猫印はあるかと。
「お米やさんにあるんですけどね」と答える私に、背後からボールペンでトントンする上司。何やら言ってる。うるさいなあ。
「ま·る·の·う·ち·やぞ」

ゴリ押しで探してくださいと電話を切った私に、「米屋探す方がむずかしいわ」とクックックッ笑いをされた。恥ずかしかったけど丸ノ内なんて未知の世界なんだから、なんか腹が立ってきた。
東京へ行くと思い出してちょっと恥ずかしくてちょっと笑える話。


ときめき坂を歩きながら、変わってしまった町並みに会社の場所を探した。セブンイレブンの場所が近いような気がした。
支店勤務の私は月1回会議に膳所まで行くのだが、会議後は決まって飲み会だ。すぐ隣が居酒屋で、その日は飲めなかった日本酒に挑戦し案の定お開き後立ち上がれない。そして雨の日。やってしまった。傘がない。
私の物と化していたその傘は正確には私の物ではない。兄夫婦の新婚旅行の母への土産を私が拝借していただけのブランド傘だ。
雨上がりの傘を忘れてしまうのはよくある話、ひと雨500本とか、年間24万本超えとか、昔も今も傘は忘れるものと決まっている。傘は見つからなかった。

同じブランドの傘を探し回って母には詫びた。ブランド物に疎いこちらの人はちょろい。ただ私の気持のほうが重い。
でも色違いしか無くて、遠方に住んでいる義姉にバレるのは時間の問題だった。
義姉に謝る日がやってきた。すんなり許してくれた義姉、もしかして忘れてたん違うと疑うほどの姉の反応に、私の罪悪感はなんだったんだと力が抜けていった。

会社の下の階はパン屋さんで、あんこばかりの重たいあんぱんが売られていた。今だにそれ以上のあんこ量のあんぱんに巡り合うことはない。スタンプラリーの塩パンのお店があのあんぱんのお店とルーツは繋がらないかしらと思いながら、休業日がとても残念だった。

西武社員の従兄弟から買った真珠三点セットも今でも冠婚葬祭に現役で、ケースの蓋の西武の文字もまた膳所駅から西武百貨店への思い出へと繋がる。

成瀬は私をその時代に連れ戻す。彼女は平成から令和の今を生きているというのに。
このノスタルジアな感じはなんなのだろう。眩しい若さのまっすぐな成瀬と共に、同じくらい眩しくて希望に満ちた私の日々がそこにある。

平和堂にて

松喜屋のハンバーグに始まり、びっくりドンキーのハンバーグで終える、成瀬あかりを辿るハードな1日、おつかれさま、私。




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