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ゼロという数字を考えてしまった時間

先日明治神宮に初参拝した。原宿と隣り合っていたのかと今さらながら知る。それ当たり前やろって都民さんには言われるやろなって、関西弁で思う。
でも今は都知事選の真っ最中、50人余りの候補者への嘆き節で一人の地方民の無知など埋もれる。売名出馬を見極めて記憶しておくことも、消去法でてっぺんまでたどり着くことも、不本意なてっぺんが来るかもしれないことも、都ならではの景色が傍目には面白い。

そんな喧騒が始まる前に原宿から表参道まで歩いた。何十年ぶりの道と初めての道だ。ハイブランドが並ぶ通りの信号待ちにランドセル背負った小さな子の姿が不思議で、小学校がどこかにあるのだと探した。
なんだ普通だなって建物を見つけて、ずいぶん昔の歌を、
( 表参道原宿は..♪ )
心のなかでリフレインしていた。

『あこがれ共同隊』というドラマの主題歌だ。
中学生時代に遡る。主役の1人西城秀樹は人生初の推しその人だ。このドラマにご多分なくはまり込んだ。
主題歌と絡んで高村幸太郎の詩が共演の郷ひろみのナレーションで語られた。

「ゼロから数字を生んでやろうと誰かが言うのだ。」

このワンフレーズにワクワクした。
未だ何ものでもない若さに限りない可能性を秘めているようで憧れた。

天文学の話  高村光太郎

それはずっとずっとさきの事だ。
太陽が少しは冷たくなる頃の事だ。
その時さういふ此の世がある為には、
ゼロから数字を生んでやらうと誰かがいふのだ。
さうか、天文学の、それは話か。
仲秋の月ださうだ、空いちめんをあんなに照らす。
おれの眼にはアトムが見える。

私にとってのゼロの思い出に浸っていたら、間もなくしてTLに流れてきたのはゼロ問題。


ゼロはどうやってもゼロ、何時誰から教えられたのかも記憶のない、頭の片隅に追いやって大人になった数字「0」が物議を呼んでいた。

18を0で割った答えはほんとうに0でいいのか。18÷1=18、18を0で割っても18が残るような気がしていたのは私だけだろうか。でも18に0をかけたら0だとは納得するので、答えは18÷0=0でなければならないのだろう。
はて、この問題は人生に必要だろうか。

無しか生まないのに無いと困る不思議な数字0に思う。
カウントダウン、例えば大晦日の秒読みのそれは3、2、1、0「おめでとう!」で、0の時には既に1秒じゃないか。
カウントダウン、例えば開催日までのそれはあと3日、あと2日、あと1日、当日は0日目ではなくて1日目じゃないか。

0は起点で折返す再チャレンジの数字だ。
0はスタートの数字だ。
0はまだ何も始まってもいない誰かの希望や可能性を貯めこんだ数字だ。
いつか誰かが0から数字を生む日が来るかもしれない夢の数字だ。








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