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これでは仕方ない。

コラム『あまのじゃく』1953/9/29 発行
文化新聞  No. 899


心打たれる分村派の熱意

    主幹 吉 田 金 八

 28日飯能市制案に対する元加治その他の反対陳情のバスに先行して、浦和の県会議事堂に行く。
 この人たちと同行するのはかつての飯能事件の公判の時、数十回一緒に行った以来のことである。
 その当時、文化新聞はこの人達の反対と見られていたから、個人的には懇意な間柄の人達だが、団体ともなれば記者は白い目で見られたものである。
 この頃は本紙の論調も「分村を解決してから後に市制を」とこの人たちと似てきているから、大変温かい目で見られていることがわかる。
 公判の時もいつも観光バス2台で法廷通いをしたのだが、今日は3台のバスが鈴なり満員であり、特に婦人がその半数を占めていて、この婦人たちが皆、白だすきで指導者に導かれて統率のある行動をとっているのを見れば、いかにこの人たちが熱心に 分村を願い続けているかが感じられて、事の善悪は別として、いじらしさに涙ぐむ思いがする。
 仮に立場を変えて旧町の人々が個人の利害で無しに団体の主張を通すために、これだけの努力と熱心さで、長年月の間運動が続けられるかどうか。
 かつてはこの人たちの敵であったかの如く見られた記者も、この頃では「仕方がない。一度は思いを通させてあげたい」という同情の気持ちにそそられる。
 12時半、県会は知事の予算案説明で休会になる見込みだとの見通しから、大忙しでオートバイを走らせて帰社する。
 手を空けて待っていた工場に、県会の記事を渡すと、町内の空気やいかにと市内を二、三歩いてみる。
 本紙の良き支持者である前議長の新井清平氏が、「昨日お祭りの事務所に私の所がなって、町内の人たちが大勢集まったが『最近の文化は馬鹿に元加治の肩を持ってけしからん』という人が多かったから、もう少しセメント反対、市制反対の記事は調節した方が良い」とのご意見であった。
 記者も意見には、熱しやすい方だから、「私は街を愛すればこそ、元加治を分村させ、それでも条件が合致するのなら市制もよし、早く平和な姿になって、セメント工場誘致に努力することが町のためになると思っているので、その考えは断じて改めない。もっとこの考えを強調するつもりだ。
 分村させろというのは決して元加治におもねているわけではなく、飯能の為を考えればこそ言うので、それがわからない人たちは新聞を取ってくれなくても結構、またそうした人たちが多くなって新聞が売れなくなれば、そんな判らぬ町民はこっちの方で御免を蒙って、文化新聞が河岸を変える」と売り言葉に買い言葉のようなことになって、人の良い新井さんを当惑させてしまった。
 記者が読者に媚びるのならば、元加治の百や百五十の読者にご機嫌を取って、旧町内のみでも千五百の読者の支持を失うことを恐れるかもしれない。
 しかし、間違ってもくねっても、思った通り書くというのが本紙の信条である。そのために知る人ぞ知る読者が本紙を愛していることを感じれば感じるほど、記者には心にない事は書けないのである。
 平岡良蔵氏が庭先までスリッパで追いかけてきて「吉田君セメント反対はあんまり書いてもらいたくないな」といったことがあった際、形に現れた反対運動があれば、書かないわけにはいかないと答えたことがあるが、記者もセメント工場ができた方が、みんなが良いと思っている。双柳の人たちが降灰の被害を過大に思い込んでいることも知っている。
 しかし現実に区民が反対をしようとし、結局は百名もの人が町役場に押しかけるとこまで発展したことを考えれば、やはり報道する立場として記者のとった態度は認められて良いと思う。
 埋草に書いた「あまのじゃく」が冗漫になってしまった。
 ここで結論的なことを言おう。分村を可決できない町議会は総辞職すべきである。小林町長も辞職すべきである。
 議会も町長も一新して元加治村を認めてやれ。
 それなくして飯能に絶対に平和の日は来ない。


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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