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お札の押し売り

コラム『あまのじゃく』1962/11/11 発行
文化新聞  No. 4308


人情の弱みを突いた悪賢わるがしこ

    主幹 吉 田 金 八

 風呂から出ようとしていたら、誰やら人が訪れて二人の娘たちが応対している。
 一人が「母ちゃんお金」と言って工場の中にいる女房に呼びかけている。
 浴室から出てみると、きちんとした服装の見慣れない30くらいの男が黒塗りのお盆を持って立っている。
 「何ですか?」と聞いたら出雲大社のお札だと言う。
 「頼んだのですか?」と聞いたら言葉を濁して、「どちらにもお届けしております」と平然たるものである。
 「頼んだのでなければお札など要らない」 といささか癪に障ったので言葉を強くピシャリと断った。
 それでも何かグズグズ言っているので「押し売りか」と決めつけたら、急におとなしくなって、「お札を返してください。」と娘たちが知らずに受け取った札を持って慌てて帰って行った。
 娘たちに御札を受け取った模様を聞いてみると、「こちらでよろしいですか?」とあたかも頼まれたものを届けるように入ってきて、お盆に乗せた御札を差し出したので、その慇懃さともっともらしさに気押されて受け取って仏壇に供えたという事だ。
 もっとも、私の家は神棚は敗戦が決まった瞬間に取り払ってしまって無いから、一応神聖なものや、他人の好意のものは仏壇に置くことにしてある。
 受け取らせておいて、「百円頂きます」と来たので、「それなら返す」という器量は娘たちにはなく、「お母さん」とお袋の援護を求めた訳である。
 この御札の押し売りの手口には、夕暮れ時の家の取込んでいる時を狙い、居合わさない主人とか主婦とかに話がついているように装い、慇懃さと勿体ぶった態度で女子供の反問を許さない式で、一軒で百円宛せしめて歩く式らしい。
 折悪く御札が大嫌いな私が居合わせて、「押し売りか」と110番に電話しかねまい気勢を示したので、退散せざるを得なかったが、この式で夕方十軒や十五軒は訳なく一枚30銭くらいの印刷物を百円ずつ十件で千円くらい稼ぐのはお茶の子であろう。
 それにしても、受け取ってしまったからお金を払う、何のかんの言い争うのが嫌だから百円払うといった、安易な妥協精神はよろしくない。 進んで恵むのなら結構だが、仕方なし、面倒だから百円で不正を見逃すということは良くないと娘たち訓戒する。
 しかし、ニセ札使いほどの危険がない、うまい商売だ。
 御札売りは何か身分を証明するものがあるのかないのか知らないが、警察が来ても押し売りの事実がなければ軽犯罪法にも問われまい。 実際は婉曲な押し売りなのだが、言葉や形には表さないのだから、いくらでも言い逃れられる。前にも出雲大社の御札売りが来たというが、これは絽の羽織、袴の神官風で、矢張り気押され百円せしめられたとのことであった。
 私は各地を旅行する時、神社仏閣は拝観し、拝観料は払うが御札は頂かないことにしている。
 庭とか建物風景とかどこの土地でも神社やお寺は優れているから目の保養になる。 その庭園、建築物を清掃手入れして維持保全するのだから、何らかの収入がなければならないのは当然で、 目の保養賃を払う義務はあろう。
 しかし、それを御札の形で家へ持ち帰るのは厄介である。安価で荷にならないお土産としてお札を買って、束ねて配る風習は昔はあったが、最近は人間が利口になったせいか、そんなものもだいぶ少なくなったようである。
※イラストは本文と関係ありません。 


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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