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松田校長の演説に感服

コラム『あまのじゃく』1958/4/30 発行
文化新聞  No. 2890


必要・充分、過不足なし‼

    主幹 吉 田 金 八 

 私は学校における教育は先生にお任せして口を出さない主義だから、大概ならPTAなどには出ない。
 この間、前田のPTAの役員更新の会合があって出席した折、なかなか支部長になり手がないので、「子供のことは母親が熱心だから、女の方が支部長になったら良い。判らないことは私が教えてやるからおやりなさい」とつい余計なことを述べたら、全員が「それが良い」 と賛成され、出席した夫人の方は承知はなさらなかったが、そんな風にまとまった空気で散会した。
 その後、一中で新旧教師と新旧PTA役員の歓送迎会をやるからとの誘いで参加料を200円払い込んだ。滅多にも何も出たことは全然なかったのだが、私が勤めて女の支部長をこさえたからには、顧問役を果たさなければ申し訳ないという、誠に殊勝な気持ちからであった。
 当日は市議会があったり、小学校のPTAの催しなどもあり、新聞屋とすれば忙しいのを差し繰って、もう送迎会の時刻になるだろうと、午後一時の開会を4時頃になって顔を出した。
 丁度第1部の総会の部が済んだと見えて、送迎会に切り替えるため、同じ講堂の中で別席に参加者が移動しているところで(私は会議等の大切な山場に間に合うように出席する習慣とコツを職業柄持っているので)「これはうまい時間に間に合った」と内心思った。
 会費200円に相当する宴会が始まってから座に連なるのも都合が良いのではなく、全く図星という瞬間に間に合った訳である。
 すでにテーブルには、折詰と2合瓶、それに夏みかんが並べてあり、ご婦人席はお酒の代わりにサイダーが、その足らず前は菓子折りが余計につくとか、いつもながら一中松田流のソツのない設営ぶりであった。
 すぐにも2号瓶の栓が抜かれると思ったら、まだまだこれからの次第が沢山プログラムにあって、本紙第三支局長柳沢君の司会で、松田校長が立って新旧役、職員の氏名とその功績が全く克明に、しかも余分なことは一片もなく、よくまあ頭の中にあんなソツのない様にしまい込めたかと思うほどに述べられ、しかも、その引例、表現、どの人に対しても少しの足らざるところもなく、いささかの失礼もない周到振りに約1時間聞き惚れてしまった。
 この松田校長の挨拶は、これを十分削れば不十分なところが出来、10分伸ばせば不必要に亘るという、言うなれば珠玉の挨拶であり、かねがね松田校長は朝礼が長いというので、生徒は煙たがっていることを聞いているが、この内容をもってすれば、実際生徒の教育上の権限を垂れていることは間違いないと想像され、この訓示を有難たがらざる生徒こそは、全く将来見込みのない不逞な生徒であると思ったほどである。
 しかし、気持ちは全く敬服と共鳴に高鳴らざるを得ないに拘わらず、無作法に育っている私の体は、小さな生徒用の椅子に、お尻の痛くなるのと肩の張ってくるのをどうする訳にもいかない気だるさに攻め立てられた。
 どこを見ても神妙にかしこまって聴いているのに、私だけ無作法もできない。時々煙草をつけても、隣席にご婦人がいて咳き込んだりするようでは、これも吹かせなくなる。足で貧乏揺すりをして、ハッと思って止めたりする始末で、どこまでも裸で焼酎を飲むことに慣らされた私には、とてもPTA役員すら詰まりそうもないことが自覚され、よく自分を知っているから、今まで役員にならずに済んだ訳だと心に自惚れたりはかなんだりした。
 送迎会を目標に出席した私が、たった1時間余の不行儀に閉口しているのに、定刻に来てすでに3時間もの総会を傾聴してきた多くの人達は、どのくらい面壁7年の座を我慢させられたことか、私は会衆の辛抱の強さに今更のように敬服させられた。
 その松田校長の演説が済むと、今度は前任者に記念品の贈呈があり、これは新様式で贈呈者が受ける人の前にお盆で捧げて行って渡す式で、狭い会場で能率的だと感心させられた。
 今度は前任、新任の職員役員の代表が一席述べ、これらも一人の時間はわずかで、とても松田校長の如く鮮やかという訳には行く訳がないが、それぞれ適切にやった。
 特に新副会長の小島音一郎君の「どうぞよろしく」という簡単なのと、前会長神山要氏の学校教育に対する情熱あふれる意見は、「飯一中を埼玉一の学校にしたい」という点にはいささか意論も有るが、神山さんもお金儲けにばかり、精魂を打ち込んでいられるのではないと感服して、盛んに拍手を送った。
 こうした儀式や会合は一応の装飾とか、形式がなければ目的を達したとは言えないことも了解し、窮屈な思いをすることも人間の修行になると合点しているものの、私は新聞記者という職業柄、そんな窮屈な場所に座らせられたこともなく、大概の場合、後と先を失礼して中心の盛り上がりの場面だけをキャッチすれば良い、また、それで十分の取材を果たせることを考えて、全くこの点を持ってしても、新聞屋とは上手い商売を選んだものだと我ながら感心した次第である。 


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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