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この儘死ねれば悪くない

コラム『あまのじゃく』1962/11/21 発行
文化新聞  No. 4376


働きすぎ? 一寸心配な身体の衰え

    主幹 吉 田 金 八

 昨夜、大塚慶之君のところから『頼んであった部品が出来たから取りに来て』と言われて、同氏の住まいの方で一話ひとっぱなしした。
 彼は酒を飲まないから、もちろん彼の家庭に酒の気はない。私のために酒をとると言うから、ウイスキーのポケット瓶が良いと言葉に甘えた。
 独酌の場合、このポケット瓶がちょうど適量である。
 ところが、このこたつでこの南京豆をつまんでウイスキーを2、3杯開けたら頭がグラグラしてきた。
 ちょうど昨年、信用金庫の旅行会でを伊勢の方に行った時と同じ兆候である。
 あの時は初めてで、自分でも大変な事になったと思って医者に行ったり、何か慌てたが、その後大したこともなく、単に過労の為のものであることが判ったが、それと同じグラグラだと自分診断した。
 大塚君は私の頭の中の様子は知らないから、盛んに自分勝手に話をしゃべりまくっているが、私はここで倒れでもしたら迷惑をかけると思ったので、大塚君が怪訝に思うような話の切り上げ方で早々同君の家を辞去した。
 家から自動車を呼ぼうかと一寸思案したが、大丈夫そうなので元気を装って自分で運転して家へ帰った。
 まだ家のものは夕食中だったが、「頭がグラグラするから帰ってきた」と話した。その癖、私の顔色は病人らしくなく元気であり、また伊勢旅行の時ほどの弱り様ではないことは自分で意識していた。
 僕の身体の事となると女房はひどく心配して、(それはどこの家でも同じことであるが)、医者を呼ぼうかと慌てている。「大丈夫、大丈夫。お医者に見せたら本当に病人にさせられてしまうから」と強く医者に電話することを止めさせた。
 「父ちゃん、変なとこで脳溢血にならないでくれよ。迎えに行くのが嫌だからな」次男がこんなことを言い出すほどに病人が出た家庭らしからざる朗らかさで食堂は高笑いが溢れた。
 家へ帰ればどんなにグラグラしても始末は良いと思ったので、その前の晩見た面白い夢の話をして、家族を笑わせて飯を2杯ほど食べてから二階に上り、寝台の上に手足を伸ばした。もうこうなれば脳溢血でも心臓麻痺でもやって来いという安心の気持ちだった。
 この頃はほとんどないが、以前ヒョイと起きた時など、頭がクラクラッとして、このまま死ぬのではないかと思うことがあった。
 そんな時など「死んではいけない。死にたくない」と必死に生にしがみつきたい気持ちだったが、最近は「このまま死ねるのなら悪くもないな」といった放心の状態で、頭を枕に押し付けて谷底に引き込まれるのを楽しむようなことも一、二度経験している。
 私はこれを悟りを開いたなどと偉ぶった表現をしたくはないが、敬愛する西郷南州が『名誉も要らぬ、金も要らぬ、命も要らぬ』といったとか、私も段々その境地が判りかけて来たのかという満足感を感じることは確かだ。
 こんなことを言うと、女房は一番悲しそうな顔をする。そして「それはあなたのエゴイズムだ。残された者はどうする? 第一新聞はやっていけない」と突っかかる。しかし、私でなければやっていけない新聞社もどうやら後継者は出来つつある。
 長男も最近は新聞社の仕事に相当欲を持つようになって来た。技術者としては問題にならないが、これは人に好かれる性質で、非常に社交性に富んでいる。ある方面では親父より人気がある。
 技術的な面ではあと1年もすれば学校の終える次男が十分カバーできる。しかもこの次男は社交性は全然ないが、度胸の良い点はオヤジの以上のところがある。この2人が共同すれば今より広い分野が開けであろうと私は思っている。しかも家中は現在の仕事に希望と自信を持っている。よく世間には親父の家業を嫌って親父が商売しているのに、会社員などになって得々としているのがあるが、親父の仕事に天職感と誇りを持たせるように家族を十分洗脳したことは、私の自慢の最大なものである。
 「まだちょっと早いかもしれないが、私が死んでも連中で何とかなる」というのが、女房にはいささか残酷だが、私の、この頃事に触れて言いだしかねない腹である。 


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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