あまのじゃくの旅 (3)
コラム『あまのじゃく』1962/5/10 発行
文化新聞 No. 4153
新潟競馬で思いがけぬご褒美
主幹 吉 田 金 八
すっかり良い気持ちになって乗ったバスは『新潟競馬場行き』、ちょうどこの日が春の新潟競馬の5日目、終点の目の前が競馬場の正門で混雑していた。
記者は競輪、競馬は暇が惜しいので見た事もない。オートバイ競走はこの前やはり家内を連れて温泉へ行った時、ちょうど隣で開催中だったのを覗いたくらいで、もちろん車券も馬券も買った経験はない。
一杯機嫌で愉快な気持ちに浮かれて、競馬というものを見ていこうという気持ちになった。
入り口で疲れたようなおばさんから「入場券おまけの競馬新聞」を一部買った。予想屋が高い台の上で、『これが外れたら首を上げる』と意気込んでいる番号を見て、俺たちも一枚買ってみようとその気になった。
この前のオートレース場では車券売場や払い戻し場があまり混んでいて、つい億劫になったが、この競馬場は日曜にもかかわらず、それほど混んでいないので遊ぶ気が沸いた。家内が『8』が縁が良いというので、『8』の売り場を探したのが見当たらない。組数字の『8』になれば同じことだということで、3ー5、2ー6の複券を5枚と3枚買った。
8というのは、私の名前の一番下についている数字で、文字の形も良いつもりだし、勝負ごとには好きな数でもある。家内がそこに気づいたのは後になれば『でかした女房』ということになる。
馬券が買えたので観覧席に回る。『締め切りまであと5分』などと場内拡声器が伝えていた。馬場は実に広大で、しかも新潟特産のチューリップなどの花壇がよろしく配置され、オートレース場のような殺風景なものとは違って気持ちが良かった。場内の入りも少なくスタンドは三分位の入りで、立席にはごま塩くらいしか人がいなかった。
それに観衆の風体も競輪場行きのバスなどで見かける人種などがほとんどなく、普通の人ばかりに見受けられた。
やっと発走となったが、私たちが出鱈目に買ったレースは『繋駕』という車を引いて走る競走で、至極のんびりしたものだった。『8』という馬もあったが、これはドン尻を駆けていて買わないで良かった。
偶然のまぐれ当たりで、後半は3と6の競り合いとなって、私らはどちらも買ってあるので気が楽で楽しかった。
拡声器が着順、配当金を放送し始めたが、私達にはよく判らなかったが、いずれにしても2種類の券のうち、どちらかが当たっていることは確かなので、家内を促して払戻場に行った。
テケツに券を出すと3ー5の方が3900円になった。2ー6の方もいくらになるのではないかと念のために穴に差し込んだが、これは「ダメです」と押し返されてしまった。
いずれにしても上首尾である。
「こんなことが病みつきになるのでしょう」と暗に私に言い聞かせるつもりの家内の言葉は、私の方がとっくに承知していた。
ここもまた良い気分で引き上げた。
「この賞金で帰りの車賃には余るから飛行機で帰ろう」私は飛行機の搭乗は陸軍の練習場が最初で、国内線、昨年は香港までのジェット機、ヘリコプターまで体験済みだが、家内は味知らずなので、国内線でも一番安い新潟ー東京間で空の旅を味わわせてやろうと思い立った。
それから市外の繁華街に出て小林百貨店に入り、「買い物はわざわざに新潟くんだりですることはない」と、家内が私のベルトを買おうというのも抑えて、売り場は全部素通り、屋上に登って全市を指差して「あれが県庁、アレが大学、あの辺が寺町」と、簡にして要を得た市内見物を終わる。
「ただし、地盤沈下が進行すれば、日本海の水面がこの小林デパートの屋上に相当するようになるのも近いうちだそうだ」と説明したら、家内は本気で心配していた。
食堂でアイスクリームを食べて、小林を出て古町ブラをやる。
マサヤ小路から二、三軒目の交通公社の案内所は、日曜でヨロイ戸が降りていた。
「東京以北では仙台、札幌以外にはこれほどアカ抜けた商店街はない」と私の自慢する古町商店街はさすがに家内もビックリしていた。「何の値段も安くはない」と物を見るのに安いか、高いかの面で見ることの多い家内の目に留まったのは肉屋の店、『モツ20円、コマギレ25円、ブタ中肉35円は飯能より安い』と私が飛行機の切符の電話番号を調べている間に、肉を500円も買い込むという実用女房ぶり。
「100g5円安くて1kg 50円 、一貫目買ったところで200円しか違わないのに、万一旅程が変わって腐ったら何のことはない」と私は笑った。
パンフレットに新婚割引お一人3900円と宣伝してる新潟交通本社の航空部はいくら呼んでも出ない。新潟駅の案内所も番号が違うのか、お話中ばかり。諦めて17時10分まで飛行場まで行っての事にしようと、市街のブラツキを続ける。
この辺の宿屋が団体客修学旅行専門、過日、次男の鉄君がこの宿屋に泊まった。私もこの吉田屋というのに泊まった事があるなど、女房に説明する。
万代橋そばの新潟観光ホテルには1泊2食付き1,000円から1,200円 、1,500円と看板が出ており、『今度来た時にはここにしよう』と話しただけで希望を先に持たせ、これが有名な万代橋、戦争中、この橋の上で劇的な再会など過去の私のラブロマンスを思い出しながら橋を渡りきると、眼についたのは、バスステーション前の航空案内所、日除けのパラソルを畳んでドアを押すと、日曜でも5、6人の係員が居合わせた。
「こんな爺さん、婆さんでも新婚割引が効きますかネ」と尋ねると笑って「さあ」という。
「それより家族割引というのがあります。これはお連れは3割引になりますから、反ってお安いかもしれません」とのこと。
「ではそれで頼みます」と申し込もうとしたら、「今日の便はもう出てしまいました。明日も満席です。目下一往復しかやっておりません」との事、パンフレットには1往復だが、17時30分と確かに書いてあったはずなのだが違っていた。
それも4月1日から再開したばかりで、同じパンフレットに佐渡までの航空便も載っていたが、これは7月1日から運行と分かり、観光案内書が去年のものかもしれないが、案外なデタラメなものとわかった。
これが何でも必要な場合なら、嘘の案内所で腹の立つところだが、こっちはどうでも良い旅なので『結局は振られて帰る果報者』で、競馬で当てにしない金が入ったので使い果たそうと思ったが、八千円の飛行賃が千六百円なにがしの汽車賃しか使えなかったことになった。
夜10時頃の夜行にして駅で立ちんぼするより、「各駅停車の鈍行でも良いから腰のかけられるのに乗って先へ行けるだけ行きましょう」との家内の言葉に従って、午後4時何分かの越後湯沢行きに乗って、車中盃を傾けながら湯沢着が10時、駅前の町風呂で時ならぬチン入者顔で迎える湯番の小娘に「おじさんは湯沢の今の発展の功労者だ。粗末に扱うまいぞ」と5円の湯銭を10倍も奮発して、衣類は番人の部屋に脱ぎ、見知らぬ顔に訝しがる村の人に憚らず、熱からずぬるからずの湯加減を楽しみ、まだ早い時間なのに温泉街反対の街は一軒の支那そば屋しか店を開けておらず、ここでまずい、野菜不足そのままのタンメンをすすり2時間近く過ごす。
4時半頃上野に着く列車に乗ったのは良いが、これが連休戻りの客で超満員。
息の詰まるような思いで辛抱したが、これで上野までは続かないと、高崎で下車、駅前の高崎ホテルと名は豪勢だが、仮眠宿で1時間50円、 3時間2人で300円を払って腰を伸ばし、朝5時20分発の八王子行きに乗って予定通り3日目の朝7時半頃には家に帰り着いた。
出発の時、夫婦を合わせて9千円ほど持って行ったが、帰ってきて六千円も余っていたことは競馬のおかげとは言いながら、ウソのような軽費旅行であった。
コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】
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