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困った青少年の不良化

コラム『あまのじゃく』1957/8/6 発行
文化新聞  No. 2627


次郎長親分の力を借りる⁇

    主幹 吉 田 金 八

 親父の方も収賄や汚職、桃色遊戯や泥棒などして仕方がないが、最近の青少年のグレン隊化したのにはまったく困りものである。
 親父共の悪いのは神武以来で別に終戦後急に悪くなったわけではなく、これはどんなに文化や教育が高まっても死ななきゃ治らないこと間違いないが、 純真であった青少年の悪化は終戦以来であり、日本人を骨抜きしようとするアメリカの占領政策の置き土産である。
 成人の悪党は度が過ぎれば刑務所にぶち込む手もあるし、人に嫌われれば雇い手もなく、遂には顎が干上がるという自然の制裁があるから、そんなに野放図に社会をのさばるわけには行かない。
 ところが、子供の悪いのは未成年の犯罪は法律にも免除規定があり、警察も指導などという手ぬるい取り締まりの域を出られない、 新聞で報道にも仮名や匿名で庇うから余計につけのぼせて、箸にも棒にもならず、親父から小遣いをせびり、親が金をくれなければ親父の首を絞めて銭函をかっさらい、アロハを着て4、5人群れをなして盛り場をのして歩く少年愚連隊が跋扈跳梁するわけである。
 最近の少年グレン隊の横行は全く眼に余るものがあり、これを何とかしなければ真面目な婦女子、青少年は安心して真昼の街が歩けないという状態になって来た。
 かつてはヤクザの親分株だったが、今は真っ当な魚屋として、わずかに昔の面影を背中の彫り物に留めている「魚文」こと中村文吉君が『この頃、チンピラぐれん隊の多くなったのには驚いた。新聞でたたいて警察にしっかりやって貰わなければ、町の人はたまらねえや。何とかならないもんかね』と魚を売りに来てこぼすところを見ても、いかに青少年の不良化が最悪事態に来ているかがわかる。
 しかし、警察でも現実に犯罪事実を掴まねば手が出せないわけで、彼らの被害を受けた人間が仕返しを恐れたり、被害者自体も親の金をくすねて遊び歩く学生などチンピラの同類に近い連中であることが多い様なことから、警察への届け出が九牛の一毛ほどしかないと言われ、これではどうにも手が出せないそうである。
 こう目的も方向もない様な人間がウヨウヨしている位なら、いっそのこと戦争でも始めて人間整理の必要がある、など飛んでもないことを考える為政者が出ない限りもない。それではグレン隊以上にまともな国民は大迷惑である。
 道徳教育、修身科の復活を松永文部大臣が考慮中だそうだが、服飾や美容まで学校で教える時代に、精神の化粧法を教えないことも偏向教育と言えよう。
 教師が生徒に体罰を加えることに馬鹿に社会は敏感で、大げさに騒ぎ立てるが、体操教師が生徒を殴り殺したなどは例外中の例外で、鞭で叩く位のことは私は自分の子供に関しては決して文句はつけない。
 教師が生徒に遠慮しているようでは、決して完全教育はできない。
 未成年だからどんなに悪いことをして社会に害悪を流しても刑罰に問われないという事も不都合である。
 報復主義の刑罰の時代ではないかも知れぬが、人を殺せば殺される、小判一枚盗めば首が飛ぶという、厳重な懲罰制度が封建社会の治安を維持してきたことを考えて見ても、ある程度の懲罰が厳重に行われなければ悪がはびこり過ぎる。
 精神年齢12歳の大人もあれば、資料分別のある18歳の青年もいる。年齢だけで法の適用を画一にすることは確かに問題である。
 昔は毒を持って毒を制する方法を採用して、今のグレン隊の取締まりに清水次郎長のような大親分を起用した例もある。
 勿論、次郎長の子分にも虎の威を借りて大衆泣かせの不得者も若干は居たろうが、それでも野放図に任せておくよりはよほど良民への被害は免れたらしい。
 今、警察の本家の自衛隊にはジェット機や化学兵器があるというのだから、別に次郎長の力を借りるほど無力でも多忙でもあるまい。
 要は、未成年者でも甘やかさない法律の改正を急ぐ必要がある、という事である。 


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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