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飯能に着いた途端にエンコ
コラム『あまのじゃく』1963/10/18 発行
文化新聞 No. 4595
無駄足だったが、親子の絆
主幹 吉 田 金 八
新潟に一晩泊まった甲斐もなく、土地の登記はこの日済まないことが現地
新津市に行って判った。権利書を持つ人が昨日大宮に行ってしまって、帰りがわからないというのだ。
こちらは旅先でグズつけば費用がかさむ、それに17日納品の大量の印刷物の仕事を受けてある。
大の男が2人欠けた留守のことが心配になる。今からでも十分飯能に帰り着ける見通しがあるので、急いで帰路に着く。昨夜の話のS印刷所のせがれも同行して、朝から雨が降る新潟の宿を出かけたのが8時半だが、 新津であちこち手間取り、いよいよ出発したのが10時。それに昨夜のスペアタイヤのパンクを白根町で修理して、いよいよ本格的に走り出したのが11時だった。
三条までの堤防上の砂利道も、雨で埃が立たないのが幸いだ。
長岡に入るところで前を走っている『埼1500』というバスに豊岡マルダイと表示があって懐かしかったが、乗っている人は知らない人だったので声をかけなかった。
明るいうちに三国峠を越えようというので、昼飯も運転を変わりあって車中のパン食で済まし、ただ、走ることにのみ専念する。
湯沢でオイルを補給したら、「今度は父ちゃんだ」とハンドルが廻ってくる。やはり危ないところは親父の方が確かだということか、といささか鼻を高くする。
峠は雨は大したことはなく、頂上を越えたらすっかり止んでいた。
紅葉は全く素晴らしく、「今度来る時は母ちゃんを乗せて来て見せよう、急ぐなら湯沢から汽車で帰せば日帰りでこの景色が見える」と言った。せがれの前では他の女と言う訳にはいかないのが、毎日仕事の犠牲になっている女房をいたわりたい気持ちはいつも私の胸にはある。
三国峠もまだ道が全部完全ではない。勢い俗化未だし、商業主義も浸み切らない、今のうちこそ見どころがあるのではないか。
私の感嘆に上の空の相槌の長男は誠に同行者としては物足りなかった。
行きと同様、沼田辺で日が暮れた。平坦地の雑踏では長男の運転の方が慣れているので、私はやっと単なる同乗者となって気楽になり、ただこの上は早く飯能につけばと時間を気にするだけだった。
渋川か高崎で奥利根号に乗り換えれば、この自動車よりは早いだろうと言ったのが、坂戸、高麗川あたりまで来て、ほとんど同時刻ということになりそうだ。ここまで無事に来て奥利根号と衝突したとあっては 死んでも死にきれない。「中居の踏切は一層気をつけて」と語り合って差し掛かったら、踏切の上に制服の警官が2人立っていて、人だかりがしている。
「今ここで人がひかれた」とのことで、ギョッとする。
職安角で一瞬ライトが消えてエンジンストップ、「ヒューズが飛んだか」と思ったが、点検もまだるこしい。
西川市場から電話をかけて、社から自動車を呼んだが、走行上のことはでは。 割についていた旅であった。
翌朝自動車を取りに行ったが、バッテリーのアース線が切れていたためであった。
コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】
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