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大正初年の日記帳

コラム『あまのじゃく』1957/8/3 発行
文化新聞  No. 2624号


萬朝報華やかなりし頃 

    主幹 吉 田 金 八

 1日の夕方、記者の不在中一人の屑屋さんが新聞社を訪れて、おそらく買物の古本類の中から拾い出したものであろう仮綴じの和紙帳を名も告げずに置いて行ったという。
 表題には明治44年、綴方帳としてあり、所有者の名前は稲木安とまでは見えるが、あとの1字か2字は虫が食って判らない。
 内容は罫紙に毛筆の美しい字で、日常座右に置く様な金言、健康法などが五分の一ほど、克明に書かれているが、個人の生活記録らしいものはなく、多くの余白は大正3年8月1日の報知新聞号外『ドイツの戒厳令』を始まりに、8月23日の『日独開戦』、11月7日の『青島の陥落』での萬朝報、東京朝日、国民新聞、中央新聞などの号外の張込帳に利用されている。
 40何年か前の新聞界が、日本の世界大戦参加に気負い立って、ラジオ、テレビ等の便利なものはなく、刻々の戦争の状況を知りたがっている国民に、各新聞社が競って号外を発行し、チンチンと市街を走っていく有様が眼に浮かぶようである。
 恐らく、文化新聞の愛読者である一屑屋さんが、この珍しい号外集を紙屑として処理するに忍びず、本社に好意ある提供をして呉れたものとして感謝に耐えない。
 各社の号外の様式、使用活字の状態、印刷の技術など大いに参考となり、当時は大新聞も、文字によれば活字のないのがあって、1号落ちた字を挟んで間に合わせてあるなど、日頃印刷と活字に苦労する新聞社には全く感慨深いコレクションである。
 この日記の冒頭に、黒岩涙香の
『此暑を如何せん』という一文が収録されてあり、末尾に、
『大正3年8月2日萬朝報言論より原文の侭』と但し書きがついているのが、丁度今日も8月2日に当たり、この数日にわかに暑中の炎熱があらたまり、誰もがフゥフゥ息ついている状態も面白く、これも何かの機縁と思われるので、この一文を借用して読者にご披露する。
 ただし、原文は難かしい漢文調の文句が多いので、本社の当用漢字で間に合わぬところが間々あるので、その個所は仮名書き、もしくは文意の通じるだけの現代文に書き改めたことは原作者には申し訳ないが、お許しいただきたい。 

  此暑を如何せん
『君は如何にして暑を避くるか』と問われること度々なり。
 然れども余は『避暑』という言葉を嫌う、納涼と言うは好し、涼をおふと言うは更に好し、おふも納めるも避くるというにはあらで、我の主動なればなり、 我主動せずして却って暑をして我に主動せしめ我は暑の奴隷となりて暑のために駆らるることを宛も猟夫に駆らるる奔獣の如くにして、しかして暑を感ぜざることを欲するものもあに得べけんや。
 暑もし避くべきものならば、都会も地方も人の活動は絶無となるべし。人は居るべき所なきに苦しまざるを得ず。
 夏は日本全国いづこも凡そ暑からざるところ無ければなり
、知らず何の処まで避け行かば暑の襲い来らざる境を得べきか。
 とは言え、余に避暑の経験無きに非ず、近くは鎌倉に避け、大磯、箱根、熱海に避け、遠くは北海道にも九州にも避けたり、避けて静かなる旅舎の一座敷に安座し身を潜め手足を休め、 あたかも死人の如くにして我が感覚の如何を試みるに、夏の去らざる間はいずれの里も夏にして流汗淋漓、ほとんど耐え難きを覚ゆ、避けて又避け、転々として多くの避暑地を試験し尽くすに及んで、よしや旅費は尽きずとするも、終には我が家に帰り来るを思わずんばあらず。
 人間至るところ我が家より快適なるはなし、他郷の楽しきは一時なり、さもあらばあれ、世間には暑さを避け得ざる人多し、日の昇ると共に起き、日盛りに至りて益々労働し、或いは窓を洩れ來る微風をだも得ずして役々、益々、汲々たり流汗は湯を浴びるが如く、吐く息は火焔の如し、しかも塵埃も身にまみれてただ眼のみ光るを余せり。
 斯かる人の暑からざるか、更に烈日の真下に寒暖計ならば130度を超えなん光線に射られつつ、ツルハシを振りて石を叩き、我が眼は火花にくらみ、我が呼吸は地のイキリにむせびて、しかも屈せざる人あり、人を載せて車をひき、平地には走り、坂道には喘ぎ、日暮れて家に帰るも一杯の氷水を呑み得ざる人もあらん、全てかかる人の為に社会は維持せらるるなり。
 斯かる人若し暑を避けなば、社会てふ此の絶大の蒸気機関は如何にして 運転せらるか、人ことごとく暑を避けなば社会は即死せざるを得ず、思いをここに至らば避暑は人間の禁物なるかな、少なくとも社会の禁物ならざるを得ず。
 然れども避けざればこの暑を如何せん、我が身体は焼かるるが如く、我が心は流るる飴の如く溶け尽くし、我が気力は汗と共に流れて、我は最早活きたる心地だになし、 昼は動く能わず、夜は眠りを得ず、此の暑を避けざれば、我は恐らくは死せん、幸いに死せざるも必ずや病を得ん、未だ病ずといえども病めるよりも疲労せん、避暑は贅沢にあらず、避暑する以外に我は生くる道無きなり、否、否、否、道なきにあらず、道あるを知らざるなり、我れ之を社中の松風君に聞く、縦に時間を突破する所に生命なりという者がベルグリンの哲学なりと、時間を縦に突破するは活きることなり。
 人と為るなり、横さまな空間に横はれば死して物質と為る、所謂起てば即ち物質も活きた人となり、横はれば即ち人も死して物質となる者に非ざるか、知らず、暑なるものは人が物質か、曰く物質なり、太陽の光線を物質に非ずと言うべからず、人立ちて我がこころを活かしめ、或る一事に熱中して進む、此の時にぞ我は活けるなり、人たるなり、即ち人なるが為に物の圧迫を感ずるの余裕なし、熱の如く、暑の如き物質争いでこの能なく、我を襲わん、既にして我が心ゆるみ起てる我は横はれる我れ為り、人たる我、瓦解して物資となる。
 物質の力来たりて我にかえれり、我れを暑に泣かしむる当然に非ずや、故に活動する人に暑なくして活動のゆるめる所に暑なり、活動せよ、活動して汝の暑を逐払え、唯なんじの暑を逐払い得ざる人暑の為に猟られて九州に避け、北海に避けざるを得ざるに至らん。
 暑を避けるは横はりて物質と為るなり、如何に避くるとも、暑を免る可からず、なんじの心機を一転し立ちて活動せば、なんじてふ物質は何の何某て人と為る、人卑しくも主動せば物質は被動と為る、暑は忽ちに駆られるなり。
 これ哲人の論にして、実は俗人が数百千年の以前より、止むを得ずして実行する所の者なりを得ずして、実行する所の者なり、暮夜、歩して渋谷に至るに素人角力あり色黒々と日に焼けたる男ども、月明かりに集まりて角力を取れり、彼等は日中の労働者なり、夜に入りて事なければ、何がために安臥がして息はざるや、他なし、彼等は横はりて物質となるの熱きに堪えず、起ちて人と為り、自ら主動して暑を逐えるなり払えるなり、斯くの如くにして疲労して、最終風呂に入りてかえりてふせば物質と為ると共に黒らんの郷に入り、前後知らずして雷の如きいびき声の裡に、翌日又起きて人となるの勇気を回復す、彼等には暑なし、有れども彼らを襲う能はず、却して彼らに逐払われて、去て他のこころのゆるめる人を襲うなり。
 是は即ち暑を避る事に非ずして、暑を忘るるなり、暑は避く可らず、唯須く事に託して忘る可し、中夜転々反側して暑に堪えず蹶起して灯をしねり、筆を執りて文を作る、文成るは容易ならず、呻吟し苦吟す。
 しかもこころは文に集中して暑のいずれに在るを知らば、暁に至りて文漸くなる、一読、二読是余が横はりたる物質境より脱し起きて、人となりたる記念なり、悪文人に示しがたしといえども、記念を得たるは快心なり、涼気座に満ちて心気とみによみがえる必ずもベルグリンの教に当たらばといえども、暑を避けずして暑を忘れたるなり、古人の曰く心頭を滅却すれば火も亦涼しと、余等凡人に斯かる至人の域には至り易からずといえども、あに月下に角力を取る彼の労働子と同じ事、暑を忘るるの工夫無からんや、故に曰く暑は忘るべし、避るる可からずと、あえて避暑を思への一読を請うと璽が言う(涙香)。
【大正3年8月2日萬朝報言論より、原文其の侭】


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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