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在支時代の思い出

コラム『あまのじゃく』1953/4/9 発行 
文化新聞  No. 669


私の見た石井細菌部隊

    主幹 吉 田 金 八

 私は支那事変のとき軍属を志願して中支那に半年いたことがある。
 今でこそ殺しても死なぬほどに頑健になったが、兵隊検査の頃は青んぶくれで心臓が弱いために、今豊岡で開業されている寺師博士、当時陸軍一等軍医とかで検査場に来られたが多分同一人物であると思われるが、その中の音羽座を思わせるような色の白い美人の軍医さんから「酒を飲むと二年と生きない」と言われて、丙種徴免という仲間に入れられ、兵隊とは縁のない身分だった。
 だから戦争に参加したいというより、「この機会に大陸を見たい」という気持ちから、持ち合わせの運転手の資格を種に軍属を志願して、念願かなって支那に渡った。
 私の部隊は、今ソ連で問題にしている細菌戦団の石井四郎中将(当時大佐)が主管した防疫給水部という衛生部隊で、石井大佐は最近戦策戦と戦地で一番困難する飲料水を作る石井式濾水機の発明者としてこの部隊の編成を命ぜられ、満州、北支、中支、南支の防疫給水部の四部隊長の長として飛行機で全線を飛んで歩いていた。
 石井式濾水器などは秘密兵器として勿体ぶっていたが、すでに京都に松風式濾過機などというものが市販されていて、水の悪い上海などでは水道の蛇口に取り付けて、家庭で使用されていたものを、大規模にして自動車に取り付けたものと思えば間違いなしの幼稚なものだった。
 なんでも秘密々々の当時の軍部、特に勿体をつけた方が予算の獲得に便利だったためか、報道部のカメラマンに写真を撮らせないほどの虎の子にしていた。
 この部隊は昭和一四年ごろに一億の予算を持つといわれた位で、必要以上の人員と装備を備え、大陸に押し渡ったものの、蒋介石は重慶に逼塞してなかなか降参せず、日本軍は点と線の占領といわれた様に、都市と鉄道を確保したのみで戦局は膠着状態であり、浙江州の杭州にあった私達の支部隊もダレ気味で鬱陶しいような毎日を繰り返していた。
 部隊の業務は二つに区別されて、細菌班と給水班に分かれ、別に将校(全部が軍医)以下百余名が半々ずつ分担した。私は部隊にこもって兵隊や残留者の糞便と、にらめっこをする細菌班は嫌だったので、始めから毎日部隊外に出て行動できる給水班を志願した。
 だから石井部隊の任務がソ連の言うように、敵地に細菌をばら撒いて疫病によって敵の戦力に損害を与える謀略部隊なのかどうか分からなかったが、細菌班では毎日のように検便や予防注射を在留日本人のみか中国人にまで施して、丁度現在の保健所の仕事と思えば間違いないような事をやっていた。
 処が、二、三か月も見ていると、秘密兵器と称するものの正体も『こんなものか』とわかってくるし、在杭州各部隊も軍医を集めて私の部隊の専門将校が行う毒ガスの教育などを見て、私が内地の町で防護団のガス救護班長として受けた教育内容と大差ないものなので、だんだんとこの部隊が小馬鹿に見えだしてきた。


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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