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生き恥”レッスン・ワン"

コラム『あまのじゃく』1953/2/28 発行 
文化新聞  No. 639
 


 議員の持ち味「功罪十色」

   主幹 吉 田 金 八

25日の飯能町議会は野党の猛者に保守派が完全に牛耳られノックアウトされた形で、記者の如き野人は心中ひそかに快哉を叫んだほどである。
 ここで言う野党派と言うのは篠原、松下、師岡、古谷の4名をさして言うので、もっぱら陣頭に立ってハッタリを利かせ奮闘したのは篠原と松下の両君で、師岡は一線将校のごとく割合上品にチョッピリ、チョッピリ、篠原、松下中隊の攻撃の合いの手にワサビをきかせており、うまい口は利けないからだんまりの一手の古谷が、中々に後備えの陣を緩めなかったと記者はにらんだ。
 峰村も当日の分村請願採択には重要な役割を果たしたが、これは別に前記4君と結んだわけではなく、独自の立場と野心から遊撃したものとみられ、彼の議事規則の精通がなかったなら、小委員会はこの付託を投げ出さなかったであろうし、保守派に小委員会付託のまま引き延ばしの口実、きっかけを得られたのであろう。彼の好打はホームランとなって分村請願を嫌々ながら議会は審議せざるを得ない立場に追い込まれてしまった。
 この場合、この人達を野党派と呼ぶ事はいささか適正を欠く恨みがあり、篠原君等は「俺は革新派だ」と言っているが、革新派と呼ぶにはこれまたちょっとそぐわない感がなくもない。
 尤も、金のない連中が封建的に金持ちに屈従していないで、言論と知能と「押し」で封建制を打ち破ることを革新と称するならば、まさしく革新派と呼ばれるべきであろう。これらの諸君は金もないし、篠原君は最近中古のダットサンを乗り回しているが、正月の10日には料金を怠って、電話を切られたと自分で言っているくらいで、押しの一手で肩で風を切っているが無産党である。
 私が面白いと思う事は、あの議会で分村案を議会の俎板に載せたいと考えているのは、今までに名前の出た5君に、町田議長、峰村君位のもので、後の23名のうち大部分は怖いものに手を触れたくない気持ちから、自分らの任期中分村案の棚上げを希望していたことは間違いない。
 だからこそ、この空気が小委員会に伝わって当分保留の線が打ち出されたもので、23人の多数が5人の口達者に散々に押さえつけられて主張を引っ込めた図は、誠に見られたものではなく、『命ながければ恥多し』で、保守派、特に残留12町議は世論に従って総辞職の挙に出ていれば、こんな無様な舞台に出ずに終ったものを、人間死すべき時に死せざればの感が深い。
 反対派でも関口などは利口者だから、終始沈黙を守っていたから恥もかかなかったが、土肥、石井両先生の如きは保留説を主張しており、「反対の者は反対意見を述べろ。俺がどこまでも食いつくぞ」と篠原君の恫喝の前に縮んでしまって、うやむやに採択に賛成したの等は、意気地のないことおびただしい。
 そこへ行くと、女ながらも岩本賢夫人は
「田楽刺しとは穏やかならぬ」と一矢酬いた事は見事であった。
 関口は採択には賛否を言っておらず、採択か不採択か、なかなか議が決しなかった折に、「関口さん、関口さん」と篠原氏に拝み倒され「採択の応援」を頼まれても、ついに腰を上げなかったが、関口氏に言わせれば「採択は可決ではない」と言うことであり、彼は最後には否決の方向にもっていく自信があった様である。
 松下の外交上手は驚異に値するものがあり、分村反対の大本山の大江元老、さらにその取り巻きの朝日、大沢の両君を特別委員会の正・副委員長に封じ込んだ手際は鮮やかなもので、当夜の彼の努力と熱意は只事ならぬものがあった。
 世人は、「松下は金にならなければ何もやらぬ男だ」と決めてかかっている様だが、今後の分村問題は口幅ったいが、文化新聞が睨んでいる限りは、絶対にそうした不浄は許さないから、彼松下の努力は彼が大沢、朝日、両長老に副委員長になれと進めた折、口を滑らせた「罪滅ぼし」の言葉のごとく、彼自身の罪滅ぼしであり、至誠が溢れていたと記者はにらんでいる。
 誠に松下氏がこの際名誉挽回をしなかったら、一生うだつが上がらなくなるのではないかと見られる。男を下げたのは寺本氏で、彼の今回の踊り方は誠に不手際で、小委員会が保留と報告した事案が本会議に採択されて小委員会の存在が無意味だったことを暴露したのみか、「委員会を離れた寺本は採択に賛成だ」などと掌を返す如きことを言っており、彼の如何に巧みな弁舌も、いささか詭弁めいて精彩のなかったことおびただしい。
 彼の初舞台をトチッた最大の原因は功を焦りすぎたためで、せっかく開店した餅屋だからいつまでも餅を丸めて居たいと言う欲を出したための失敗と記者はにらんでいる。


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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