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《オートバイ》西日本一周の旅(11)

コラム『あまのじゃく』1953/5/23 発行 
文化新聞  No. 717


但馬山中で重大故障、寒駅で三日間休養する

西日本一周はついに断念

    主幹 吉 田 金 八

 丹後宮津より但馬豊岡に至る県道脇の無名村の川辺で出発以来第9夜を明かしたが、10日目は後輪のタイヤの空気が甘いので、ポンプを探したが、何分兵庫県豊岡市に八里という山村なので「あそこの自動車屋にあるかも知れん」どこそこの鍛冶屋にあるかも知れんと三、四軒もポンプを訪ねてようやく借りる始末。
 ようやくエアーを満たして豊岡市にいたり、駅前のタイヤ屋にて城崎より鳥取に出たいのだがといえば、「この間には列車でもトンネルが三十八か所もある有名な難所で、到底海岸沿いには走行不可能である。
 目下、国道の大工事が進行中なので、来月にでもなれば開通するらしいが、目下のところでは八鹿(ようか)まで戻って、それより全但交通バス線を村岡まで行き、それより八里の峠を越えて香住もしくは浜坂に出て、鳥取に向かうのが順路である」と教えられ若干の戻り道をして八鹿に至り村岡線を上る。
 既にここ2、3日前より交通安全週間の実施中で、いたる所の都市で交通の一斉取り締まりに出会い、その都度停車して前照灯、その他の点検をさせられた。すでに京都府下でもスピードメーターの不備で警告書を発せられており、その他でも警告書云々と言われたが、その都度「あまり有難くない免状だから沢山です」と冗談を言って、それに遠国の車の故で寛大な扱いを受けてきたものの、やはり車両の責任者とすれば一応尾灯、ストップライト等も点検に備えて完全にせねばならず、せっかく整備したのが毎日の悪路と軍用車上がりでクッションの悪い『陸王』では、何時のか間に振動でダメになっていたり、それのみか1日に数回も一斉でストップさせられ、その都度行き先その他を問われるので、手間取る事夥しいので、相当腐ってしまった。
 交通取り締まりは、先方にすれば相手が変わるから何とも思わぬらしいが、こちらにしてみれば相手変われど主変わらずでかなわない。
 八鹿より約20キロ余り、あと数キロで村岡だと言う時点で、前フォークのハンガーが折れて、車は危うく転覆しそうになり、ちょうど数十丈の崖をS字型に登坂する難所をすぎて、穏やかな下り坂道だったので幸い事なきを得たが、女房も瞬間青くなって「もうこの辺でやめましょう」と連日の弱音をさらに主張し出してきた。
 それに折れたハンガーも、部品は到底この付近で入手できそうもなく、酸素溶接等では絶対に保たぬ箇所なので、ついに残念ながら西日本1周の壮図もこの辺で断念せざるをえなくなった。
 ちょうど午後2時ごろだったが、直ちにその場で愛車の解体作業に取り掛かった。
 モンキー、プライヤー、ドライバー、大レンチといった少数の工具だったが、日没近い頃までに一応の解体は終わり、通りがかりの車を頼んで2キロ余り離れた但馬福岡と言う一宿場まで運び、丸正と言う旅人宿に投宿するに至った。
 オートバイ走行を断念したために、急に気が緩んだのと、さらに連日の悪戦苦闘が40路を超えた身によほど応えたと見えて、同夜一杯飲んで寝に着いてから腰が痛み出して、どうにも動けず便所にも女房の介添えがなければ行けない始末になってしまった。
 翌17日朝本社に「18日朝まで但馬福岡に滞在する」旨電報したが、翌々日になっても疲労回復せず、18日も終日床を離れられず、今まで毎日の如く送信した走行記も本19日に至り只今(午後3時)一切の荷造りが終わり、定期便を待つ段取りができるまでご無沙汰するに至った。
 荷物は八鹿駅より飯能に直送し、後は身軽になった親子三人、せっかく出掛けたものだから、予定コースを汽車の旅で26日までには帰社するよう、関西各地を巡りたいと思っている。
《※ 編者注=オートバイの故障と処理で身体、精神的に相当のダメージがあった模様で、文章・文脈が乱れておりますが、ご容赦ください。添付の写真は本文と関係ありません。》


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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