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平岡良蔵氏と私

コラム『あまのじゃく』1953/6/9 発行 
文化新聞  No. 788


”変わり者”記者をからかう平良氏

    主幹 吉 田 金 八

 先ごろの衆議院選には飯能に本社を置く本紙が地元候補に弓を引いた形となってしまった。
 もともと記者は社会党びいきであることは先刻読者もご承知の通りだが、新聞は私器ではないから、きわめて個人の感情を抑えて公平なものを作りたいと考えている。だから、ことさらに自由党の平岡氏を毛嫌いする意図もなく、ただ世論を忠実に反映させたに過ぎず、平良派の心胆を寒からしめたのは投書の野砲の攻撃であったと思っている。しかも本紙に表明された世論は氷山の一角であって、戦局の全般に同様な空気がびまんしていたことは、同氏の落選で如実に証明されたわけで、このことは文化の紙面を偽装世論と誤認して大勢を軽視した同派の参謀陣を驚倒せしめたに違いない。
 世論をそのままに反映させ、読者の意見を取り継いだに過ぎない本紙も、あまりにも論調の示した如き結果が実現し、巨岩の如く地方政界に君臨した自由党の大御所があえ無くも一敗地にまみれたとあると聊か面はゆく、「敗軍の将」の記をとろろおもいつつ、幾度か会見の機をうかがったが、何となく敷居が高いようで、そのままに過ぎてしまった。
 もともと記者と平岡良蔵氏とは知らない仲でもなく、彼は平仙の営業大将として、記者は貧乏機屋の跡取りとして、月・木ごとの所沢の市日には、武蔵野電車で所沢通いをしていたものだ。
 二十年前の当時は機屋の誰もが洋服などというものは珍しく、みな和服着流しに角帯、三尺姿で、冬ならば黒セルの羽織を羽織っていた。
 同じ機屋と言っても、記者などは買次で品代を手形にして貰うのに一、二時間も店頭の火鉢にかじり付いていなければならないのに、『平仙の良さん』は「おう」と言った、まるで中学生の挨拶のような声をかけて、懐手にカバンを抱いて買次の店に立てば、帳場は『倉皇』として用意の手形なり小切手を奉るという格好だった。
 現在の文化新聞と飯能繊維程の社会の待遇に差異はあったが、それでも同業だということで、まんざら知らない仲でもなかった。
 それに記者の父親は苦労人で、そうした有力者のご機嫌取りが上手だったから、「吉田君の親父はどうだった」とかいう風に話しかけられる。
 現に親父が死んで家産を整理した時も、紙クズ位の価値しかなかった所沢織物工業組合の出資持分を、細田栄蔵氏の斡旋で引き受けてもらった記憶も、その当時有難いと思っただけに、未だに脳裏にきざみこまれている。
 新聞をやっている以上、どうせ問題は次々起こるし、交際の親疎で記事の扱いを変えることは許されないし。大義親を滅すで、鉄の心臓振りでなければならぬことは充分承知だから、勇を鼓してセントヘレナのナポレオンの心境を聞くことはよき題材ではないかと伺っていた。
 観音寺幼稚園の開園式の時、平岡氏も来賓として列席している。宴席の座に着いても一人離されて別格扱いにされて、手持無沙汰だったと見えて、頃合いを計って折詰めを下げて帰ろうとして末席の記者の脇を通り合わせた。
 記者はその時、平仙レースの代理できていた北村氏と広告の事で話し込んでいた所だったが、酒の酔いも手伝って、「どうぞ」と隣の空いた椅子に招じた。図らずも平仙と平良という難しい両者を双方に置いた形で、さすが強心臓の記者も下手な話題も出せないので、聊かたじたじで、当たり障りのないことをしゃべって座を濁した。
 だが、良蔵氏も新聞の事にあんまりこだわった気配も見えず上機嫌だったので、ヤレヤレそうなると猿年の記者は図に乗りやすい。
 文化新聞と平良の取り合わせがあんまり変なので、帳場で怪訝な顔をしているのを、「大丈夫ですよ。知っているのですから」と安心させて座敷に通ると、相客を予想していたのがだれもおらず、平良氏は女中相手にポツンとしていた。
 そのうち呼びかけの妓らしいのがやってきたが、この芸者がまた大いな平良ファンらしく、記者に盛んに突っかかってくるのを記者が負けずにやり返し、チンプンカンプンの口喧嘩を平良氏はニヤニヤしながら聞いていた。
 「平良さん、投書欄に出た某大物のツヤ種なんか私は信用しないが、芸者もあんまり片寄って呼ぶとあらぬ噂を宣伝されるし、また、その噂を待っている大物食いもいるというから、芸者を呼ぶにも満遍なく誰彼なしにするのがよいんじゃないですか」と記者がわざと憎まれ口を聞くと、その女はプンとして「それでは私んとこが上がったりになります」と膨れる。
 「だがなぁ吉田君、君も少し書きすぎるよ。安心して気を許してしゃべったのが、すぐ翌日の新聞に書き立てられては、今度は君の前では何もしゃべれない事になるよ」
「でも、新聞記者は書くのが商売ですから、何でも耳に入ったことは書きますよ。ただ提供者には迷惑はかけないし、その立場は尊重するから、種の出どころには困らない。あれを書いては悪い、これを書いては困るでは新聞は出来ません」
「それでは文化にはウッカリしゃべるなって皆に言っとくぜ」
「ご自由に願います。ただ、世の中にはどんな人にも反対者があるということ、材料は反対側から出るということを政治家は知っていなければいけませんよ」
 平良氏も口では記者をこなし、むくれ気であったが、腹の中はそれほどでもなく、吉金の変わり者、悪たれ坊主をからかっている風に受け取れた。
 そのうち関口氏もやって来たし、酒席で難しい話も野暮ないたりなので、
「近いうちお伺いして、色々ご心境をお伺いします。」ということで程の良いところで辞去したが、満遍なく公平均点的に芸者を呼べ、なんて悪知恵をつけられては商売上がったりと思ったのか、くだんの芸者が帰りしなに高級煙草を記者に渡して「あんまり余計な事を言わないでよ」と睨んだのはおかしかった。


 コラム『あまのじゃく』は、埼玉県西武地方の日刊ローカル紙「文化新聞」に掲載された評判の風刺評論です。歯に衣着せぬ論評は大戦後の困窮にあえぐ読者の留飲を下げ、喝采を浴びました。70年後の現代社会にも、少しも色褪せず通用する評論だと信じます。
 このエッセイは発行当時の社会情勢を反映したものです。内容・表現において、現在とは相容れない物もありますが、著作者の意思を尊重して原文のまま掲載いたします】

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