ないはないけど、なくはないよの話
これまでで、一番感動した瞬間はいつだろう。
僕が心が動いたな〜と思うのは
中学二年生のとき、兵庫県の展望台で見た、初めての満点の星空。あれは綺麗だったな。流れ星ってホントに見えるんだ!と感動した。
他にも、受験に合格できたときとか、苦労してつくった舞台が上演されたときとか、源さんが結婚したときとか、扇芝さんがライブで「パラシュート」を歌ってくれたときとか、
日記に残らない感動もたくさんあったと思う。
これらの感動って、何のためにあるのだろう、と考えたりする。
このnoteではそんなときの僕の思考を言語化してみる。
自然選択で"たまたま"生まれた私
まず、私はたまたま生まれた存在ということを前提にしないといけない。
人生に絶対的な意味があるのなら、こんなこと考えるだけ無駄である。意味は無いし、神様の話をここではしない。
キリンは頑張って首を伸ばして、それが子孫へ受け継がれ、そうしてうんと長い首になった。
これは間違いだと知っているだろうか?
"高い草を食べようと頑張ったから"伸びた!というのは間違いだと考えられている。
ヨイショー⤴︎と頑張って、一匹のキリンが死ぬまでに少し首が伸びたとする。
毎日空を見上げて、とても頑張って首が伸びた。
このように、"頑張って"獲得した形質は、子どもに遺伝で受け継がれるわけではない。
例えば、ある人が毎日誰よりも筋トレをし、ムキムキになれたとする。しかし、その人の子どもは別にムキムキに生まれやしない。
同じように、生きてる間に何かを獲得しても、それは後世に受け継がれない。
では、キリンが世代を重ねるごとに首が伸びたのはなぜだろう。
🌿🦒🦒
「お母さん!お兄ちゃんだけなんか首長めだよ!」
キリンが子どもをつくると、突然変異などで首が少し長い子どもが生まれることがある。
すると、そのキリンは他の兄弟よりたまたま生き残りやすかった。他より高くにある草を食べやすいのは、生き延びるのに向いていたのだ。
生き延びた首の長いキリンからは、遺伝子から同じように首の長いキリンの子どもが生まれる。
そうして、長い時間が経つとキリンは首の長い個体だけが残ることになる。
これが"自然選択説"である。
人が誕生したのも、これと同じ理由であると考えられる。
大昔に、魚類からたまたま陸上に適した個体が生まれ、それがたまたま環境に適応し、多様化した。いつの日か両生類となり、哺乳類の祖先が生まれ、たまたまの遺伝子の変化と自然選択を重ね、今の人が誕生した。
これを人は進化と呼ぶ。
このように考えると、生まれたことに意味はないなあと思う。
人をデザインした神様がいるわけでも、何か使命をもって生まれたわけでもない。頑張っても、それは100年もしないうちに消える。
生きることに意味なんてないのだ。
偶然生まれた私なのだから。
だけど、
生きることに、意味をつけることはできる。
というか、人は意味をつけたがる生き物である。
「僕らが出会ったのは運命かもしれないね」
なんて呟くあの人の頭はドーパミンがどばどばだろう。
意味をつけると、なんだか楽しい。面白い。生まれてよかったーと思えたりする。
意味がないよーーと生きるよりは、意味がある方が、生きがいがあるのだ。
初めの話に戻るが、生活に散らばる感動も、意味づけをするスパイスなんだと僕は思う。
月から地球を見た人は、きっとその感動を胸に、
俺はこの感動のために生まれてきたんだ!!
と感じたのではないだろうか。生きる意味を見つけたのではないだろうか。
ただ地球と月とあなたがそこにいただけなのに、誰だってそんな景色を見れば運命を語ってしまうと思う。僕だってそうだ。
昔、月面で回転寿司チェーンを展開した夢を見たことがある。それでも結構夢の中で感動した。
こんな風に、意味をつけながら生きると、 オモロい瞬間があったりする。
都合よく生きてみたい
僕は、生きることや何かの結果に対して「意味がない」「意味がある」と、都合よく使い分けていいと思う。
たまたま生まれただけだし、いつか終わるのだから、大丈夫だよ、ドンマイ
自分を責めたくなる自分にはそうやって伝えてあげる。
そうでないときは、積極的に意味づけをしたい。
小さなことに運命を感じたり、人とのご縁に一つ一つ感謝したり、美味しいご飯を食べたときは、この一杯のために生まれたのかもしれないなって思いたい。
それが、生きるという意味だと思う。
というわけで、今日も運命のお酒に乾杯する。
美味しい味のする毎日であれと願うばかりだ。
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