ヒッチコックを追いかけて2 ゴジラ監督 本多猪四郎

『ゴジラ−1.0』は面白かった。
ちょっと強引なシナリオではあったが。
まあ、ゴジラ自体が強引な存在だし、しょうがない。

というか、ハリウッドゴジラの出来が酷すぎて、比べれば、まともなゴジラ映画だった。

電車を咥えるゴジラとか、第一作へオマージュするカットもあった。

ハリウッドゴジラは、キングギドラやモスラ、今回のキングコングと、かつての東宝戦略とほぼ同じ展開になっているから笑える。
ゴジラの息子ミニラだって出て来そうな勢いだ。

前回だか、死んだ渡辺謙の演じる役名「芹沢猪四郎」は東宝ゴジラの第一作でゴジラを倒した芹沢博士と、作品監督の本多猪四郎に由来している。
第一作ゴジラ監督へのリスペクトなのだ。

同じ東宝で黒澤明の一つ歳下、本多の監督デビューは40歳と他の監督より出遅れていた。

しかし1954年の『ゴジラ』が全米でも大ヒットして、世界的な監督になる。

以来、東宝ドル箱の怪獣シリーズや「電送人間」「美女と液体人間」など、少し大人向けの怪奇作品など作っている。

しかし、本多猪四郎の演出は、表現が大人し過ぎるとか、画一的だとか、東宝の上層部からは評判が良くなかった。

紋切り型の台詞回しや場面展開など、当時の日本映画でよく見られたステレオタイプ、凡庸な演出作品が多かった。

まあ、昔の日本映画にはありがちなのだが。

そもそも、同じ会社の同世代に黒澤が居るから、可哀想過ぎる。

確かに黒澤明の力は頭抜けている。

面白い逸話が残っている。

黒澤組の酒席で、誰かが酔っぱらって「ゴジラをクロさんが作ったら、どうなるんだろ」と呟いた。

黒澤も呆気にとられながらだが、笑ったあと、どう作るか考え始めたらしい。

それを聞いた東宝上層部は大慌て、もし黒澤のリアリズムで真剣にゴジラを作ったら、どれだけの予算が掛かるか分からない。

直ぐに止めに掛かって、酒宴の戯言で終わる。


本多猪四郎は、とうとう東宝の専属契約を解かれてしまう。

以後、フリーにてテレビの特撮作品などを作り、1975年の『メカゴジラの逆襲』以来、映画監督作品はない。

その後は1980年「影武者」から、黒澤明に請われて演出補佐を務める様になる。

いわゆる「格下げ」助監督だが、現場スタッフからは慕われたらしい。

本多の温和な性格は、瞬間湯沸かし器の様な黒澤演出の緩衝材になった。

そして1990年『夢』も、当然助監督を務める。

「夢」は黒澤には珍しいオムニバス作品で、逸話のひとつにゴッホの絵画をモチーフにした話がある。

その逸話に、ゴッホ役で「タクシードライバー」の大監督マーティン・スコセッシが俳優として出演した。

撮影現場で、スコセッシは黒澤から助監督の本多猪四郎を紹介される。

彼は子供の様に喜び、本多をハグし、記念写真を撮ってくれと懇願する。

スコセッシは1942年生まれで、子供の頃から本多の怪獣物やSFの大ファンだったのだ。

スコセッシにとっては、演出法が大人しいとか、ステレオタイプとかの言葉は出て来ない。

誰もが「映画の魔法」の虜なのだ。

「パシフィック・リム」のギレルモ・デル・トロ監督も「この作品をモンスターマスターに捧げる」と本多猪四郎の名をクレジットに載せている。

1993年、黒澤の『まあだだよ』の撮影が終わり、本多猪四郎は81歳で他界する。

墓標には「本多は誠に善良で温厚な人柄でした。映画の為に力いっぱい働き、十分に生きて本多らしく静かに一生を終えました」という黒澤明の言葉が刻まれている。

ハリウッドで、そして日本で彼の作ったゴジラは生き続ける。




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