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内藤礼 「生まれておいで 生きておいで」@東京国立博物館

7月31日、行ってきました。
トーハク自体、久しぶりだなぁ。
内藤礼という現代アートの作品がトーハク(東京国立博物館)の中でどう展開されるのか・・・
春に、国立西洋美術館での「現代アートと国立西洋美術館の所蔵品とのコラボ」でも、内藤礼さんの作品で「color beginning」とポール・セザンヌの「葉を落としたジャ・ド・ブッフォンに木々」という作品と合わせて・・・があったけど、トーハクの空間とどう合わせるのかがとても興味があった。

内藤礼さんの作品って、やっぱり、「他の作品と」ではなく、「空間と」だと強く思ったのが、この「生まれておいで 生きておいで」でした。
確かに、古代の土器や石器、石を彫刻した小さな装飾品(出土品)とのコラボもすごく「内藤礼さんだなぁ」って感じたけど、もっと大きなところの、「建物との親和性を強く感じる」のが内藤礼さんの作品だなぁと。
内藤礼さんの作品自体はとてもミニマルなもので、かそけき、儚き、ふわっとした・・・なんだけど、小さな小さな、気をつけてないと目に留まらないほどの小さいものなんだけど、大きな空間にこそマッチする・・・この「普通に考えると、合いそうにない」と思える、大きな空間にこそ魅力を発揮する、内藤礼さんのものの見方が、たまらなく魅力的で感動的でした。

世代を重ねて現存している、東京国立博物館の構造物、そしてモザイク石の壁面に、小さな小さな点のような丸い鏡一枚あるだけなのに、そこに目を留めた時点から、悠久の時間の流れが感じられ、古代の出土品が収められている重みを、その小さな鏡が映し出す・・・この人の・・・内藤礼さんの見つめている「時の流れ」って・・・・きっと誰もが平等に見ているはずなのに、日頃、そこに気持ちを留めることがなかなかできずにいる現代の中にあって、すごく貴重な感覚だなぁと。

 小さな瓶に口すれすれまで水を入れたものが、通路にぽつんと置いてある。
知らない人がスレっスレに通っていって、水の表面にさざなみが立つ、監視員さんが息を呑むのがわかる(苦笑・・・黙ってらしても、言いたいだろう、叫びたいだろうって同情しちゃいます・・・)
ほんと、そこに置いてあるもの・・・なのに、無関心だと全く目に入らない・・・カメラとは決定的に違う、人は目で見ているわけではない、人は意識で見ているんですよね。

大きな広い、天井の高い空間に、置かれている、展示されているものは、ホントに一つ一つ小さな点なんですよ、ガラスビーズ、細いテグスで張られていて、せわしく動いていては決して目に入ってこない・・・でも、当たり前にそこにある・・・ずっとある・・・自然光の中で、どの人も平等に目に入っているはずのもの・・・そこに気持ちを留める時間を持つ・・・息を呑んで見つめる時間・・・グレイの薄暗がりの中に浮かんでぼんやりと「そこにある」小さなものたち・・・ああ、「悠久の時を見せる」って、こんなに小さな作品を使ってできることなんだなぁと。どこにでもあるありふれた物をつかって、誰にも平等にある「時間と空間」を、内藤礼さんの作品だけがこうやって見せることができる・・・

心が落ち着き、いつまでもそこに浸っていたい・・・
そういう世界を見せてくれる、素晴らしい展覧会でした。

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