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そこは地獄の炉の中(少々脱線)

 私にとって沼津と言う町の最古の記憶は祖母の死と葬儀であって、中でも香貫山麓北の中瀬にある火葬場での経験は強烈なものであった。死人の始末をつけるのについ此の間まで生きていた人を燃やしてしまうのである。そして骨に化して二組の箸で壺に終う。幼児の経験としては如何なものだろうと今でも疑問に思う。

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斎場脇の香貫山登山口を利用するものは少ない

 さて明治か大正か判らないが、古地図を見ると本能寺の北西に病院の記号がある。どうやら避病院らしい。避病院と言うのは伝染病患者を収容するための施設で、明治の頃ならばコレラ(虎烈刺と書いたので虎疫とも言った)がさかんに流行って大勢の人が死んだ。そして死んだ人は遺体に残る病原菌を殺すために焼却処理するのが決まりになった。これがわが国での100%に近い火葬率達成への始まりである。避病院であれば火葬場が近くにあるのは当たり前で、この情報は本当だろうと思った。ちなみに本能寺境内には墓地があるが、それに隣接して由緒が解からない社がある。
 どうもここいら辺が火葬場の跡でなはいかと睨んでいる。
 死者を入れた棺というものはとても重いので、山道を登った先に炉があるというのは不合理である。特に機械力が普及してない戦前期には人力で棺を運ぶことになるから、火葬場の置かれる場所は人里離れた谷戸の奥が普通であった。もちろん火葬時のばい煙や臭気を防ぐために丘の上で火葬したという記録もあって、江戸で初めての火葬は将軍家の血筋のもので六本木の高台で行われたとされる。火葬場の立地は難しいので熱海市のように塵芥焼却場と共に山の上に建てた例は別に珍しくないが、やはり自動車が普及してのことだろう。ではもしこの後自動車の利用が衰退したらどうなるかと考えると、困惑施設の立地はこの方法で良いか?となる…
 実は火葬場の跡地を何件か通りかかったが、どこも一種独特の雰囲気があった。しかしそこに火葬場があると知ったのはもちろん事後である。よく霊の宿ると言うがもちろんそんなのは感じられない。死んだ場所に霊が残ると言う発想は感情的に理解できるが、火葬場は人の死ぬ場所ではないので、あり得ない…もちろん人の死がない場所というわけでもないが。
 それにしても本能寺から静浦中学校跡への道は独特の不自然さがある。

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国道414号線から見た本能寺
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本能寺本堂
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旧通学路を登る
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境内を見かえす
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ありし日の静浦中学校への道
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静浦漁港を見下ろす
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振り返りながら


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