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柳川の城下町について⇒堀割はすごいのだ!

 「柳河(柳川)は水の国だ」これは明治の文豪著「五足の靴」という紀行文に、柳川について書かれている冒頭の部分です。柳川の城下町は、筑後川のデルタ地帯に位置する歴史的な町です。矢部川から水を引いた掘割が町の中を縦横に走っており、これが城下町の特徴となっています。
 掘割はもともと防御システムの一部でした。敵が攻めてきた場合には、水門を開放することで掘割の水があふれて、柳川城の中心部を島のように残し、そのほか周辺の町を水没させることができたのです。これは、水の城とも呼ばれる柳川城の独創的な仕掛けでした。
 ちなみに画像の水門は城内に水が流れる唯一の水門で、ここを閉めることで城内を水没から守る要の水門です。

画像1. 柳川城堀水門

 立花宗茂は、この地を自分の本拠地に選びましたが、それには深い理由がありました。宗茂の養父である立花道雪は、この地を攻めようとして失敗したことがありました。そのため、宗茂はここを自分のものにすることで、養父の恨みを晴らそうとしたのです。宗茂は天正十五(1587)年に城や町の建設を始めましたが、関が原の戦いで西軍について敗れたため、筑後一国は田中吉政に与えられました。柳川城の五層の天守閣や石垣などは、吉政が建てたものです。【1】

 田中家はその後絶えてしまいましたが、元和六(1620)年に立花宗茂が再び柳川に戻ってきました。江戸期を通じて、いったん改易された大名が再び同じ場所に再封されることは極めて珍しいことのようです。たぶん立花宗重だけかな? それだけ優秀だったのでしょう。
 江戸時代になって、城下町柳川は三つの地区に分かれていました。本丸・二の丸・三の丸を囲む内堀の中には、武家が住んでいる「御家中」がありました。それから南西には「沖端町」、北東には「柳河町」がありました。柳河町や沖端町にも武家が住んでいましたが、町人と一緒に住んでいたため、身分別に住んでいたわけではありませんでした。しかし、下級の武士が住んでいるところは「小路」の名前がつけられて呼ばれ、町人が住んでいるところは「町」と呼ばれていたため、呼び方で区別はされていたようです。【1】

 御家中の中には、「袋小路」という行き止まりの町があったり、職人が集まっている「細工町」があったり、寺がたくさんあるところがあったりしました。【2】細工町は御家中から離れたところにありましたから、職人は武家とあまり関わらなかったのかもしれません。柳川城下町は色々な特徴があり、近世城下町の典型的な形をしていたと言われています。【1】

柳川の城下町に興味があるなら、ぜひ訪れてみてください。きっと素敵な風景に出会えると思います。

参考文献
【1】 『城下町古地図散歩7 熊本・九州の城下町』平凡社 1998年発行
【2】 柳川市史別編『新柳川明証図会』柳川市 2002年発行


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