2023紅白歌合戦 YOASOBI「アイドル」のステージの備忘録
前書き
2023年・紅白歌合戦で歌われたYOASOBI「アイドル」は、凄まじかった。
伝統的かつ国民的年越し番組。国民的アイドル事務所が物議を醸し、その影響で1人も出ないという事態になった。その枠に代わりにおさまったかのようにも見える、例年にない多さのK-POP勢。ただでさえこの年の紅白はこの2点が物議を醸していたのだ。様々な界隈の人が自らの信念、思想に基づいて「見る」「見ない」を表明していたのを、出演者が発表されてから12/31までずっと見てきた。
そんな紅白歌合戦の本番前から嵐が吹き荒れていた2023年。この年の楽曲の中でトップクラスのヒット曲がYOASOBIの「アイドル」だ。
…と、この1行でまとめてしまうにはあまりにも乱暴な性質を持っているのがこの「アイドル」という楽曲だろう。
この曲は「推しの子」のテレビアニメ版のOPとして制作された。もっといえば、「推しの子」の登場人物である、一番星を宿したアイドル「星野アイ」のイメージソング、キャラクターソングと言っても良いくらいの、彼女1人を指す楽曲である。
そんな楽曲がこの年最大のヒットとなった背景には、楽曲の素晴らしさの土台に「推しの子」という作品の人気、面白さ、そして「星野アイ」というキャラクターの魅力が存在している。それは、この楽曲に纏わることを語る上で無視することはできない。
さて、そんなYOASOBIの「アイドル」だが、紅白歌合戦の曲順としても、大トリのMISIA、白組トリの福山雅治の前という、紅白歌合戦としてもおそらく最大級の目玉として捉えていることがありありとわかるポジションにいた。
そんな肝入りの楽曲で、紅白歌合戦がとった演出は「紅白歌合戦に出場している(中で時間や技術の制約を受けない)全てのアイドルを出演させる」という大胆なものであった。
これには賛否両論どころか、さまざまな立場の様々な人から、それはもう多種多様な意見が飛び交った。
この文章は、あのステージに魅了された一視聴者から見えた景色と感動を記録するものである。
私のYOASOBI「アイドル」との出会い
私はそもそも漫画、アニメ共に「推しの子」を世間からだいぶ遅れて知った。
どうやらヒットしてるらしい、その主題歌もすごいらしい、ということだけうっすら知っている程度だった。
おそらく一番最初に「アイドル」をワンフレーズでも聞いたのは、のちに実際にアイドルになった不動の裁判長が躍っている動画を、テレビ朝日公式スーパーヒーロータイムのTikTokアカウントで見かけたのが最初である。2023年の夏頃。相当遅い。(余談だが私は「オトナブルー」も同じ経緯で知った。とにかく音楽に疎い特オタなのである)
その時はキャッチーなメロディと可愛らしい声、何よりキレキレキラキラの裁判長の普段とのギャップにやられてエンドレスリピートし、そのワンフレーズだけやたら覚えてしまった。しかしそれがかの有名な「推しの子」のOP曲である「アイドル」だということにはしばらく気がついていなかった。
その後、推しの子の導入部分の簡単なあらすじを知った状態で、歌番組で平原綾香さんが歌ったのを聞いたのが、フルで聴いた最初である。
その時には「星野アイ」がどんな存在なのかをざっくりと知っているだけだったのだが、「アイドル」を聞いて涙を流すにはそれで十分だった。
物語と、楽曲、平原綾香さんの歌唱力、そして何より歌詞が、「星野アイ」という人物を伝聞形式でしか知らない人間の心ですら動かした。
その後アニメを観ていた身内Aが「アイドルはPVも含めて傑作なんだ」とYouTubeの映像を教えてくれた。
何度も言うが、当時の私は「星野アイ」やその子供たちのことはほとんど知らなかった。にもかかわらず、その映像を見た時には涙が止まらなかった。
愛を知らない女の子が、偶像として愛を演じてきた女の子が、まごうことなき「愛してる」を我が子に言う物語。その行間を無限に想像して、というか想像を掻き立てられて、それは結果として「涙」という形になって現れた。
このことから、アイドルという楽曲は、「推しの子」や「星野アイ」のことを大して知らないとしても、耳に残る楽曲であり、人の心を動かす力を持つ楽曲であると言えるだろう。
もちろんこれは私の主観である。全員が全員そうだとは言えない。しかし、そういう人がこの世に1人はいる、という前提で先に進めたい。
その後、私と近しい、演劇ファンの身内Bに漫画を勧められて、少し読むつもりが面白すぎて休日一日を潰して一気読みしたのが秋頃になる。
こうして紅白歌合戦でYOASOBIの「アイドル」を見る頃には、「推しの子」「星野アイ」の知識をしっかり持った状態になった。
紅白歌合戦の「アイドル」での、私個人の詳細な感情。
紅白歌合戦そのものは、私はフルで観たわけではなく、Switch片手に興味のあるところだけつまみぐ食いしていた。それでもポケビとブラビの復活は正座して観て号泣するなど、すでに情緒が相当揺さぶられた状態で、あのステージが始まったわけである。
途中登場したドルオタ集団は実際に合いの手を入れている方々であるというような解説を身内Aから受け(なるほどファンもご本人、ファン込みのアイドルのステージの再現なんだな…)と思った次の瞬間から現役のアイドルがサビの部分で踊る。
(おお、キレッキレ…アイドルってすごい…)などと思いつつ(いやでも、星野アイではなく、実在する生身の人間であるアイドルの一グループが、「完璧で究極のアイドル」なんていう歌詞を踊らされるのって不健全じゃ…?)(今踊ってるグループの別グループのファンからしたら、一番星は自分の推しだろうし…)という邪念が多少なりとも過った。もちろん紅白の舞台だからこそ、「星野アイ」の概念を背負って歌うYOASOBIのお二人のパフォーマンスを見たいという想いもあった。
そして曲はそのまま2番に突入し、ここでもアイドルグループがパフォーマンスをしていることに私は頭を抱えた
2番は、星野アイに嫉妬し、自らを引き立て役と蔑む星野アイ以外のアイドルの視点からスタートするからである。
これを現役のアイドルにやらせるかよ。そんな酷いことあるか。どんな気持ちでアイドルも踊ればいいんだよ。
…という邪念は、秒で吹き飛ばされた。
名前も知らなかったそのグループのセンターで踊っていた彼女の不適な笑みは、まるで私の「大きなお世話」ですら見透かすような、その上でパフォーマンスで捩じ伏せてやるというような宣戦布告のように私には見えた。
おそらくそれは、邪念混じりに画面を見てしまってる、という負い目が見せた幻でしかないのだろう。彼女の笑みはアイドルとしてのスマイルだったのだろう。けれど、事実として私の邪念は、彼女たちのパフォーマンスの前には単なる下衆の勘ぐりに成り下がった。
そこから先はただ圧倒されたのだ。彼ら彼女らのパフォーマンスに。
難易度の高い激しいステップで、しかも複数人が一糸乱れぬパフォーマンスをする。
歌詞のネガティブさを一瞬忘れかけるが、だからと言って歌詞とミスマッチな表現ではない。
皆、最高のパフォーマンスでYOASOBIの「アイドル」を作り上げていた。
それは、アイドルたち自身のパフォーマンスも蔑ろになってはおらず、またYOASOBIの「アイドル」という楽曲そのものも蔑ろにされてはいない、と私には見えた。
推しの子という作品にはたびたび「演技力やパフォーマンスを特段期待されていない人が、自分の武器や、泥臭い努力を駆使して視聴者やスタッフ陣の予測を上回るパフォーマンスで圧倒する」というシーンが出てくる。
大人の事情の、大人が決めたルールの中で、それでもアッと言わせる彼ら彼女らの努力する姿は、それ自体がドラマを生む。けれど、それを私は今まで過程を込みの漫画の読者としてからでしか体験してこなかった。作中の視聴者たちと同じように、そのパフォーマンス自体に圧倒された経験はなかった。(これはアニメ版ではもしかしたら疑似体験ができたのかもしれない。)
そんな中で、作中の視聴者と似た体験が紅白歌合戦という場で、我が身に降りかかってきたのだ。これは得難い経験だった。
その後、Cパートのラップ部分で橋本環奈さんとあのちゃんが登場した時がボルテージ最高潮だった。
私はかねてより「星野アイは現実に存在してはならないが、一番近いのは橋本環奈ではないか」説を唱えている。(その説の根拠などは今回は割愛)
アイドル時代にグループの垣根を飛び越えて「天使と悪魔」のミームを生み出し、そして今は1人で活動してる中でも人気を保持しているこの2人が、「アイドル」という楽曲の中で星野アイの「アイドル」としての顔を歌い上げる部分で登場するのは、現代日本では唯一の解であると思えるほどに、ストンと胸に落ちた。(最適解かどうかは横に置いておく)
そうして、「星野アイ」の本音部分ではikuraさんがばっちり映って歌い上げる。当然だ。ここだけは他のどんなアイドルも踏み込めない。ここの領域は「星野アイ」だけのものだから、元から「推しの子」「星野アイ」を背負っているYOASOBIのお二人だけが許された領域なのだろう。
そしてあのアイドル大集合のエンディング。圧巻の一言では言い表せないのだが、「圧巻」としか言いようがなかった。
これが、全ステージが終わった後の、最終的な私の感想になる。
世間の評価
紅白が終わった後でもXでYOASOBIやアイドルが長らくトレンドに残り、様々な人が意見を語っていた。
私が見た限りの主だったものは
1、アイドル大集合、圧巻。すごくよかった。
2、もっとYOASOBI(星野アイ)が見たかった
3、ジャニーズがここにいれば/いなくてよかった
4、現役アイドルにこの曲踊らせるの歪、完全に現役アイドルがお星様の引き立て役扱いだった
とだいたいこれくらいに分類されるだろう。
大衆が誰彼構わず大絶賛しているということはない。少なくとも私のXアカウントのアルゴリズムは、だいたいこれらの意見を満遍なく均等に拾っていたように思う。
そして、これらの多面的な意見を生み出す状況において、これらの意見を一つの意見としてまとめた上であのステージを論じることは不可能だと思っている。
なぜなら、どの立場であのステージを見ていたかによって、見える世界がまるきり変わるからだ。
歌詞の意味を噛み砕いて理解しているか、ヒット曲という認識しか持っていないのか。「推しの子」自体を知っているか、はたまた実在のアイドルに詳しいか。あの場にいたアイドルのファンなのか、あの場にいないアイドルのファンなのか、YOASOBIのファンか、誰のファンでもないのか。それらの条件の組み合わせで、いくつもの前提条件のパターンが生まれる。
例えば私は「実在のアイドルに関する思い入れはほとんどない」(好きなアイドルはいるにはいるが、どちらかというと役者としての彼ら彼女らを好きになったクチだ)し、「YOASOBIを推しているわけでもない」かつ「推しの子のにわかファン」であり「どんなジャンルでもエンタメで最高のパフォーマンスをする人が好き」である。そんな私の意見としては「現役アイドルに歌わせるのは歪」を経て「圧巻だった、すごかった」に帰結した。
前提条件が違っていれば、見えてくる景色が違う、「アイドル」という楽曲は、それくらいの厚みを持った物語性を孕んだ楽曲だ。
もっと言うと、これらの要素のうち、幾つものポイントに精通しているからこそ見えるものももちろんあるが、どの点についても精通してないとしても惹きつけられるものがある。それはかつて私は身を持って体感した。それが「アイドル」という楽曲の魅力であり、あのステージのエネルギーだ。
そして、視聴者たちは、どれか一つの意見に偏るでもなく、自分の立場から見えてる景色を投稿している。自分の言葉で感想を投稿したくなる。世間的にもそんなステージだったことは間違いないだろう。
余談(邪推)
紅白歌合戦側はどこまで狙ってやったのだろうか。
アイドルを題材にしたヒット曲に、アイドルたちを総出演させる。マスに向けたお祭りとしては王道な発想で、その役割はしっかり果たしていると言えるだろう。
しかし、よりにもよって、1番YOASOBI以外の現役アイドルに目が行く演出を、よりにもよってあの2番に持ってこなくてもいいだろう。
それはお祭りを優先させたが故の単なる無神経とも思えない。
推しの子という作品の内容を例え知らなくても、避けて通りたくなるほどにあの2番の歌詞はストレートだ。「妬み嫉妬」「お星様の引き立て役」「我々ははなからおまけ」などのネガティブなワードが満載だ。
生半可なら理由ではオファーできないし、力関係によるかもしれないが、アイドル側だって断る選択肢だってあるだろう。アイドルがここのパート「のみ」をパフォーマンスすることは、視聴者にわずかでもネガティブな感情を抱かせてしまう危険性を孕んでいることは、誰しもすぐに気づいたはずだ。
1番無難な演出は、推しの子作中の「引き立て役B」のことを背負ったYOASOBIの2人にフォーカスするやり方だろう。
けれど、あえてここをアイドルたち踊らせてでも、星野アイの本音パートをYOASOBIに託した。これは「アイドル」という楽曲の構成、「推しの子」という作品をある程度知っている人が演出を考えたとする方がしっくりくる。
となると、なぜネガティブな歌詞の部分をアイドルにオファーしたか。
それはパフォーマンスをするアイドルたちの力量を信じたから、というのは、いささか好意的かもしれないが、1番自然な気がするのだ。
視聴者をねじ伏せられるパフォーマンス。
それを彼ら彼女らが持っていることを知った上で、あのステージ上に「推しの子」空間を作ろうとしていたのではないか。
「アイドル」も「推しの子」もある特定のアイドル、星野アイとその子供たちの話である。
けれども、星野アイやその子供たちを取り巻く環境、状況、感情は、音楽や演劇の業界で生きる中で、一切合切共感できない…ということはよっぽどないだろう。
だからこそ、芸能界に身を置く人々が「アイドル」に乗せて何かパフォーマンスをする時、それはその人自身の「アイドル」という楽曲になっていると私は思う。
この2023年の紅白歌合戦に出演したアイドルたちは、例年とは違う宿命を背負ってきた。
国籍や出演経緯など、純粋なパフォーマンス以外の部分にも注目があつまり、当人たちの力及ばぬ範囲で開幕前から大衆に批判的な目を向けられている。「見る」「見ない」を表明する理由のほとんどは、彼ら彼女らのパフォーマンスではなくて政治的信条に由来していることも多い。
そんな時代に紅白出演となった彼ら彼女らのパフォーマンス技術、なによりプロとしての矜持を信頼した上で、現実世界に「推しの子」の空間を可能な形で再現して、視聴者に叩きつけたのではないか。
「推しの子」とYOASOBIサイドと、アイドルサイド、どちらへのリスペクトも両立させるための演出なのではないか。
あのステージはどうも、わかりやすいお祭りの裏で、そういう意図があったような気がしてならない。
この企画の発案者は、「アイドル」や推しの子自体をそんなに知らない人かもしれないが、実際にステージを構築した人々は双方へのリスペクトがあったように思う。
(仮にそんな意図がなく、無神経の産物であのステージが生まれたのであれば、一邪推視聴者ひそこまで錯覚させた、あのステージでパフォーマンスをするアイドルたちの技術力に、とにかく舌を巻く限りである。)
最後に
あの場には、パフォーマンスしたアイドルの数だけの「アイドル」があった。
その物語はそれぞれに濃く、また膨大であったため、一つのステージで収まるようなものではなかった。そのために、そこからどれだけの物語を読み取るか、人によってその感度が異なり、違和感や感動の種類が様々に分岐したのだろう。
それは健全なものではないし、人によっては正しいものとは映らなかったかもしれない。
アイドルというパフォーマンス概念総括と言うには楽曲は星野アイ個人的に寄りすぎている。かと言って純粋な「推しの子」やYOASOBIの「アイドル」のステージかといえば、それを言うにはパフォーマーそれぞれの物語が付随しすぎていた。
だからこそ、私は、あの一夜限りの再現不可能なステージを、2023年を経験したさまざまな人が「アイドル」と聞いて思い浮かべる全ての要素を可能な限りぶち込んだ舞台として、「アイドル」のステージだったと評価したい。
それは「アイドル」という職業そのものが、多岐のジャンルに活動フィールドを展開し、その上でファンとアイドルに独自の関係を作り上げる、きちんとした定義があるわけでもなく、かと言ってまるで実体が掴めない定義というわけでもない、その言葉が持つ間口の広い受容性と近いように私には思えるのだ。
そして、あのステージ上でパフォーマンスした全ての人が、「完璧で究極のアイドル」であった。様々な感想を誘発したステージにおいて、この一点は純然たる事実として良いように思う。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?