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7月12日(日曜日)【日記】

ぼくはいま、高齢者住宅で暮らしている。脳出血で入院ししていた時は、世田谷区の病院だだたのだが、退院時に、実家のある世田谷区の施設や都内の施設を希望したものの、空きがなくて、松戸市の高齢者住宅に住むことになり、そこで一人暮らしをしている。
一部屋5条程度の広さの部屋に介護ベットがある。
シェアハウスのような作りで、同じフロアには多くの高齢者が住んでいる。その半分くらいの人は認知症のようで、通常の感覚でいるとこっちまで頭がおかしくなりそうだ。
サッまで、三軒さきのお婆さんがずっと叫び続けていた。
助けを求める叫びだ。「誰かー、誰かいないの!と、30分くらい叫んでいる。老婆の掠れた声の叫びはそれだけで少し怖い。日によっては叫びだけではなくて、泣きながら叫んでいるのだ。入居したばかりの時は、「どうしました?」なんてこえをかけたりしたものだけど、自分の体も麻痺で動かないから、よけいなことをしてさらに悪いことになってはいけない。だから、たすけてと言われてもたすけてはいけないのだ。ひとり部屋で横になって、そんな老婆の悲痛な叫びを聴きながら、昼寝をする。
心が痛む。
スタッフは4.5人いるなだけど、『あーまたか」と言う感じ。用もないのに呼ぶ人も多い。
でもしかし、これ、今日は昼間だからまだいあけど、夜中にトイレで身が覚めた時に掠れた震えた声で助けて〜、と聞こえてくるとゾッとします。夜勤の介護士かんはなれたもんだけどね。体が動かないのに、呼んでもだもきてくれないから、自分の力で、動いて、物を取ろうとしたり、トイレに行こうとしたりして、力尽きて、床に座り込んで助けを求める感じなのです。病院の時もナースコール
押しても、誰もきてくれないことが多かった。ナースさんいわく、人が足りないのだそうだ。
ぼくは夜にトイレ行きたくてナースコールで呼んだら、文句言われたことがある。1人で30人みてるんだから、手が回らないのよ!あまりコールしないでよ!と、介護や医療関係はいろいろた問題が多そうだ。
昭和15年生まれの母親から電話があった。同じく昭和15年生まれの父親がまた、入院したらしい。
昨日は昭和2年生まれと5年生まれの98才95さいの方とデーサービスで麻雀をやった。ボロボロこぼすから牌をただてあげたり、並べてあげたりして、なんとかげーむになったのだけど、そのおじいちゃんが、終わった時に「あー楽しかった」といってくれたのが嬉しかったですね。父はこの2年間は入退院をくりかえしているから、母の心労も絶えない。
20年前にくも膜下出血で手術して、それ以降は仕事ができなくなった親父を母親が支えてきた。
そして頑張ってきたところへ10年前は孫が脳出血、そして、今、かぞかを支えなきゃならないのに、ぼくが脳出血で仕事ができなくなった。
神さまはいるのだろうか。神様がいるのなら、ぼくのことはもういいので、せめて母親からくろうを覗いてください。何十年も旅行にさえ行けてない。
ぼくは生活保護でかろうじて生活させてもらえてる身なので、母親への旅行などプレゼントすることもできない。なんとも情け無い人生だな。
リハビリ頑張って体治したらまず最初に母親と娘と息子に美味しいものをたくさん食べさせてあげよう。喜んでくれるかな。母親がうれしそうなかおをしてくれることが1番の幸せだと感じる。
あしたもリハビリ頑張る💪

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