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死んでも忘れられない話シリーズ「鶴ヶ城〜母とボクと時々、知らないおじさん〜」の巻

両親が離婚という進路を選択し中学生の私の生活にも少しずつ変化が訪れる。

上京していた5つ上の次男「きみくん」が、私を心配して仕事を辞めて実家に帰って来たこと。

そして、やたらと人に心配されることが増えたこと。

心配してもらえることはありがたいが、多感な時期だったこともあり素直に喜べなかった。
近所の人に心配をされても「あっ、はい、へへへ」とヘラヘラとやり過ごしていた。
「何かあれば言えよ」とか
「困ったことがあれば言ってね」と言われるが「何かってなんだ?」「困ったことの範囲はどこまでなんだろう?」
と逆に私を悩ませた。

そんな時は「同じクラスの〇〇ちゃんのオッパイがデカい」とか、「宮沢りえが可愛い過ぎて困りますね〜」などと、はぐらかす。

「そうじゃないよ。もっと離婚して困っている系のやつ」みたいな顔をしてくるが、そんなことは勿論わかっている。

あと1番厄介なのが「大丈夫か?」だった。
「大丈夫です。」と言うしかない。
「いや、やっぱりお父さんがいないと寂しです」と言ったところで
「大変だなぁ、頑張れよ」となる。
なんじゃそりゃ!

悩みや相談は、その人の解決力レベルに合わせてあげないといけないことを知った。

結果、ヘラヘラしてるに限る。

「せっかく人様が心配してくれてるのに失礼なヤツだ」と思うかもしれないが、後にバチが当たり実家が全焼しますのでご勘弁を♪

ふっ、ハードな自虐だ!

きみくんは気軽に心配してくる人間にどなり散らしていた。
「テメーに心配される覚えはねぇ」
「口だけの心配ならいらねえよ」
「そんなに心配なら口だけじゃなくて金持って来い」
「家なき子」の安達祐実もビックリだ!
(因みに実家の火事は近所の怒鳴り散らされた方の放火じゃないです。祖母の天ぷらの油の不始末です。また別の機会に)

たくまい兄である。

言葉だけ聞くと北斗の拳の敵みたいに聞こえるが、兄の気持ちもわかる。
確かに上っ面の心配は迷惑でしかない。

しかし、私はこれを好機と捉えた。

「そうだ!甘えよう」
流石、三男坊の末っ子だ!

勉強が苦手な私は、嫌いな教科の授業になると、ちょっと落ち込んでる素振りをみせ
「胸が苦しい」
などと戯けたことを抜かし保健室に行ったり、学校を早退したりした。
家に帰ってはゲーム三昧、マンガ読み三昧だった。

それはそれは最高だった。

更に私を心配して実家に帰って来たはずの兄が、1年間無職のまま遊びほうけていた。
むしろ私が心配した。

そんな遊び相手もいて学校も休むようになっていた。
自分の名誉の為に言わせてもらうが、学校は休んでも部活(柔道)には行っていた。
(なんの名誉かわからないが。)
(あと兄の名誉の為に、後に結婚して五人の子どもに恵まれ実家で母の面倒をみながら、しっかり働いています。)

さて、学校に行かず、好きなことしかしてない『動画を配信してないゆたぽん状態』
(お金を稼いでいる分、ゆたぽんはえらい。)

母は本当に心配していた。

そりゃ、心配のタネが同時に2人!
スラムダンクの安西先生が頭をクシャってする名シーンみたいにはならない。

私にいたっては、落ち込んでいる嘘の姿しか母みせていない。

本当にひどいやつだ。

学校をサボりたいだけの安易で幼稚な手段で、どれだけ母に心配をかけたことか。
今、自分が親になって改めて申し訳ない気持ちで
スケールのだいぶ小さい「かりゆし58」の「アンマー」の気分です。

ある日
「ヨシノリ、スキーに行こうか?」母からの誘い。

中学生で母と2人でのスキー旅行はちょっと恥ずかしかったが、母のしつこさに負け行くことにした。

きっと嘘をつき、学校を休んでいた母への罪悪感もあったと思う。

親子2人での水入らずの2泊3日のスキー旅行だった。
(たしかきみくんはこの時、一瞬働き始めた時期だった。私の記憶では3ヶ月くらいでやめたと思う。なので来なかった。もしくは酔っ払って転んでケガをしていた時だったか。まっ、そんな感じだ。)

出発の日、母は楽しそうだった。
そんな母を見ていて、私も嬉しかった。
行き先は会津若松。
(だからタイトルが鶴ヶ城ね。実際は行ったスキー場とだいぶ離れていた気がするけど
『東京タワー 〜オカンとボクと、時々、オトン〜』ぽくしたいからタイトルに入れさせて頂きました。)

しかし、千葉の鴨川からだと随分遠い。
そう言えばどうやって行くのだろう?
母はそんな長距離運転出来るのだろうか?

「お待たせ」

男の声が聞こえた。

振り返れば知らないおじさんがいる。
「振り返れば奴がいる」みたいな言い方をしたが
(1993年放送の織田裕二主演ドラマ)
突然現れた謎の知らないおじさん!
織田裕二もビックリだ!

母「一緒に行くお母さんの友達の〇〇さん」
おじさん「えーと、ヨシノリくんだよね?よろしく」

あまりの驚きに視界が白くなる。
スキー場に着く前から「ホワイトアウト」状態。
(2000年公開の映画、織田裕二主演)
これまた織田裕二もビックリだ。

母よ、前もって言うべきだろう。
結構デリケートな問題よ!?
いや、前もって言われれば、スキーには行かなかったかもしれない。
隠しているようだったが、2人の雰囲気や会話の距離感で、ただの友達ではないのはわかった。
私は竈門炭治郎ばりに鼻が効く。

母の濃いめのピンクのスキーウェアと、おっさんの薄髪おでこにサングラスが余計に私を苛立たせた。

そう、私はまだ中学生。
多感な時期だ。

私は心のどこかで「なんだかんだ言っても、父は帰ってくる」と思っていた。
しかし、帰って来ないことが現実味帯びてきた気がした。

それに母親までいなくなってしまうような、そんな気がしたのかもしれない。

今では考えられない。
今ならきっと母に「のし」をつけて、裏に返品不可と書いてこのおじさんに渡すだろう。
なんなら3万円くらい付けても良い。

「じゃ、そろそろレッツゴーしましょうか♪」陽気な母の掛け声が悲惨な旅の始まりを告げた。

移動中は寝ていた。
起きては、寝たふりしたりと旅を「逆満喫」していた。
ケータイもない地獄の時間だ。
ドナドナの気持ちが少しわかった気がする。

旅の最中は「話しかけるな」の空気を最大限に出し続けていた。
しかし本当に話しかけられないと、それはそれでイライラしたりと、かまちょで困ったさんな私。嫌いじゃない。

この旅の1番の不安は宿だ。
「お部屋キレイかな〜?」とか「ご飯美味しいかな〜?」ではない。

「部屋割りどんなかな〜?」である。

3人一緒の部屋はキツい。

だが、それを車中で聞く勇気はない。

それが私を1番憂鬱にさせていた。

宿に到着。

運命の時は来た!

母「今日からお世話になる予約した齊藤です」
フロント「こちらお部屋の鍵です。」

渡されたカギは2つ!!

「ほっ!!」

流石に2部屋とってあった。

一安心だ。

母親と一緒の部屋もキツいが最悪はまぬがれた。

母「夕飯は7時に食べに行くから遅れずにロビーに来なさいよ」と鍵を渡された。

ま、まさかの一人部屋だった!

オイオイ!
母もメチャクチャだった!
メチャクチャ過ぎて清々しい!

スキー場から聞こえてくる松任谷由美さんの「BLIZZARD」とゲレンデ効果も相まってか
2人が原田知世と三上博史に見えてきた。
(1987年公開の映画「私をスキーに連れてって」)

多分、意識がと遠のいていたのだろう。
私はその日、熱をだした。

両親の離婚劇は、はぐれメタル何匹分の経験値を私に与えたろうか。

折角、スキーまで連れて行ってもらったが、そのおじさんとは仲良くならなかった。

でも、帰りの高速で、スピード違反で覆面パトカーに捕まっても、「ざまあみろ」とは思わなかった。

長い長い2泊3日の旅の話。


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