辛い、死にたいと思ってるお前達は
人は何故生まれ、何故死へ向かう定めにあるのだろうか。一度は考え見た事があると思う。
ここからは俺の体験を元に。
そして尚、現在も雁字搦めの巣の中で弱き物の代弁者として生きる俺の考え方が誰かの幸せのヒントになれば幸いだ。
2001年に生まれた俺は職人の父とデザイナーの母の元に生まれた。病気や怪我もしない健康体で生まれたが身長だけが唯一心配される程小さかった。親父は過去、スキー選手でオリンピック候補まで行く程の実力を持っていた為、俺は抜群の身体能力を授かった。とにかくスポーツが好きだった。当然外遊びが好きで当時はDSやWiiが流行っていたがアウトドア小僧な俺はドラクエもポケモンもレイトン教授も知らず1人で木登りをしているような子供だった。
子供あるあるなのかもしれないが、ゲームを持っていない俺は仲間外れの対象となった。
公園のベンチで皆がゲームをしている横でひたすら体を動かして遊んでいた。勿論、近所にはゲームもするけど外遊びが好きな子達もいた。
そこで人生で初めて人と自分の違いを発見。
皆が共通して好きな事ってなんだろう。
俺はサッカーや鬼ごっこが好き。
でも皆はゲームが好き。人と喋らずひたすらゲームをクリアさせる事に面白みを見出せない俺は仲間外れにされてる事なんて気にも掛けず。ただひたすらに皆つまらなさそうだなと感じていた。これが生まれて初めて芽生えた主観だと思う。自分以外の人間がどう物事を捉えるのか、楽しみ悲しむのかを疑問に思った瞬間だった。
そんなこんなで小学校4年になった。
親父の仕事の関係上、引っ越しをする事になり隣りの区に転校することになった。そこで俺が何も考えずただ学校に行き、気楽に日常を子供らしく過ごした日々が終わった。
ゲームがないと一緒に遊んでくれなかった奴も外で沢山遊んで悪さをして一緒に怒られた奴との人生で初めての別れは、案外寂しかった。
その寂しさや、孤独を少し感じた状態で迎えた転校初日。まぁ普通の1日だった。
誰がこの学校で1番足が速いのかをクラスを訪れてグラウンドに呼び出し戦った。
今考えたら恐ろしく行動的かつ、パッションに満ちていた時代だったなと思う。
そんなこんなですぐに友達もでき、恋しかった前校の奴らの事もあまり考えなくはなっていき当たり前に過ぎていく毎日を繰り返しそのまま小学5年生になった。ここから俺の人生は変わっていく。
小学5年生になり、クラス替えがあった。
担任は保護者から評判の悪い中年のイケおじ。でも子供の俺達には担任がいい先生に見えていた。生徒一人一人の個性や性格を活かす為に、生徒に色んなことを挑戦させていた。
俺は小学校一年生からずっとリレーの選手で、常に3学年上くらいの中でも常に1番を取るほど足が速かった。運動会でヒーローだった俺に運動以外取り柄のない俺に担任はこう言った。
お前は勉強は諦めろ。
勉強なんてしなくていい。
お前のIQは低すぎる。
お前はスポーツで生きていけ。
だから一度陸上大会に出てみろ。
そんな提案があった。
即答。出ると答えた。俺はこの世の誰よりも速いと思っていたから、負けるとも勝つとも考えもしなかった。
その提案を受け入れた後はと言うと。
皆がテストを配られテストを受ける中。
何故か俺の机にだけテストが配られない。
皆が家庭学習を出し、給食当番をしている中、学習ノートも給食袋も俺は持って来なくていいその間、お前はグラウンドに行って自由に走り回っていい。練習していて良いと言われた。
楽しかった。俺は特別なんだ。そう感じた。
そう感じながら子供ながらにプレッシャーや緊張を感じながら迎えた6月の陸上競技大会。
100mと80mハードルにエントリーした。
予選から経験者をさしおいて組着順一位。
市民大会ではなく、クラブチームやアスリートクラブの選手達が出るようなレースだった。
とんとん拍子で予選を通過し100mでは決勝6位入賞。ハードルは初出場のど素人で優勝。
大健闘で大会の幕は閉じた。
優勝者や好成績者のみに出場権が得られる全道大会にも駒を進め、全道では4位で6年生のシーズンは終わった。
勿論味を占めた。6年生になりまた大会に出場した、その間も陸上は習わず、担任の言う通り好きな事だけをしていた。
その年もハードルと100mに出た。
100mは決勝にて8位。ハードルは2連覇。
大会後、去年と同様に全道大会の練習をする為に陸上競技場を父親と訪れた。
当時どこにも所属せず無名の俺が2連覇。
陸連関係者達の間で話題になったようで、トップ選手を数々輩出してきた名コーチから声が掛かった。
お父さん、今からオリンピック目指しましょう
この子のセンス、走勘はトップレベルです。金銭は頂きませんので、この子を育てさせてもらえないでしょうか。
スポーツで高みを目指しトップレベルで勝負をしてきた父親からすりゃ嬉しかったであろう。
その数日後から、その名コーチとのマンツーマン指導が始まった。
技術的な事を学び、着実とタイムやフォームを伸ばしていき順調かに見えた。
全道大会2週間前。
当時身長がとてつもなく小さい俺の体で走りながらハードルを飛び越えるという運動で体に負荷がかかり過ぎていた。練習に肉離れを起こしまともに歩くのもしんどいほどだった。
札幌でも名医と呼び名の高いドクターを紹介してもらい、マッサージ、リハビリ、電気治療をしてもらって、なんとか動けるようにはなったが思うようにはできなかった。
迎えた全道大会。
3位入賞者までが横浜で行われる全国大会に出場出来るという取り決めがあった。
無名で全市大会2連覇。優勝候補だった俺は予選は通過したものの、レース終盤に同じ箇所を肉離れをして結果は決勝5位にて幕を閉じた。
初めて言い訳がしたくなった。
初めて悔しかった。初めて挫折を味わった。
その後レースは何度かあった。
勿論ハードルは市内で無双状態。
100mは決勝には残れるものの、優勝はできずその頃からハードルを専門種目にしようと考えていた。子供が故に勝負論のない戦いに挑む事でプライドが傷つく事を嫌がっていた。
シーズンを終え、冬季。
北海道は冬季レースというものがない。
とにかく走り込み、技術練習。
相変わらず学校では担任の言う事に従い勉強もせず、ただ陸上に没頭していた。
そんな俺も小学校を卒業。
担任やクラスと別れ、新たなクラスと環境で中学自体が始まった。
勿論俺は陸上部に入った。正直舐めていた。
俺よりも遅く技量のない上級生を下に見ていたし、負ける気はしなかったし、それに予想通り負けなかった。
でもそこで一つの壁にぶち当たる。
俺が専門種目としていたハードルは小学、中学、高校、一般とハードルの高さの規定が変わってくる。入学当時の俺の身長は139センチ。
中学生の規程なハードルサイズは91センチ。
自分の肩くらいまであるハードル。
超えることは出来ても、走りながらそのハードルを超えて速いタイムを出すことは出来なかった。そこで悟った。ハードルでは戦えない事を
どれだけ足が速くても、どれだけハードルを超える技術が天才的だとしても、その身長で勝負できるわけがない。努力ではどうにもならない壁にぶち当たった俺は、中学3年間。一度もハードルのレースには出ず、何の成績も残せずに引退をした。
それまで俺には陸上があると思っていた俺だったし、勉強の仕方すらわからなかったが、引退後の中学3年の秋とうとう受験期を迎えた。
なんの成績も残せなかったが、身長が大きくなれば俺は戦えると周りも俺もそう思っていた。
挫折はしても陸上を辞めようと思った事はなかったし、早い段階で過去に名門校のコーチからも、うちにこいとのオファーもあり、なんとかなると思っていたが、そんな俺の成績は最悪だった。オール1のKランク。推薦や単願すらも受け入れてもらえなかった。なんなら普通の高校すらもいけないと担任には言われていた。
推薦然り、好きな道に進む為には文武両道がマストであると言うことに初めて気づいた。
そこから市内で1番頭の悪い、名前を書けば入れるような公立の高校を受験し、なんとか入学することはできた。
特にスポーツに力を入れてるわけでもない。
ヤンキーが多く底辺の生徒が集まる高校でも俺は諦めずに陸上部に入った。
設備は最悪。プレハズ小屋に錆びた筋トレ器具が置いてあり、水捌けの悪いグラウンド。
部員はいるものサボりやらチンピラみたいな部員やらで構成された陸上部。
口コミやある程度の成績を知っていた顧問や部員達は俺をエースと呼び快く歓迎してくれた。
高校でハードルがしたい。
俺の実力を証明したい。
焦らずここまで耐えてきたんだ。
そう思いながら練習に励んだ。
高校入学当時の俺は170センチまで身長が伸びていた。体つきも中学生の時よりもがっちりし大きく丸い筋肉がやんわりつき始めていた。
そんな時、学校外での自主練中に俺は全治6ヶ月の怪我をする。腰の疲労骨折だ。
体の成長とオーバーワークで体の支柱である腰を壊し、6ヶ月間は体育も少しの運動もドクターストップがかかってしまった。
今シーズン全てを棒に振った。
皆がウォーミングアップをしてる中。
和気藹々と励み走ってる中。
俺はマネージャーかのような扱い。
給水、タオル干し、洗濯、部員のマッサージ。
それが悔しくて仕方なかった。
俺は我慢しきれず部活が終わるとトレーニング室に直行。ウエイトトレーニングと、自主練をして、さらに腰を壊してしまった。
それと同時に部活に居場所が無くなった。
あいつ疲労骨折してる癖に自主練はしてる。
少し速いからって自分が特別だと思って調子に乗ってるんだと周りは口にし、上級生や同い年の奴らは俺から離れて言った。
その時に俺は思った。
陸上が無くなった俺は、ハードルが出来ない俺にはもう価値がないんだ。俺にはもう何もなくなってしまった、と。
クラスに友達は居たが部活をする為に学校に行っていた。部活に居場所も受け入れてくれる場所もない、怪我で挫折を繰り返してやっと戦える準備は出来ていたのに戦うどころか、怪我をして何も出来ないそんな俺には価値など無いと言われてるようで。耐えれなくなり退部した。
しばらく絶望感と投げやりな気持ちを交互に繰り返し、俺が価値を見出せるものを探した。
部活を辞め時間が増えた俺は俺はコンビニでバイトを友達も遊び、たまに学校をサボり。
適当な1年間を過ごし、なんとか進級もした。
高校2年生になりクラス替えがあった。
部活もやめて髪の毛もセットし眉毛も細くして学ランは第二ボタンまで空けて登校。
こっそりタバコも吸い始め、新しく入ってきた後輩達からはキャーキャー言われ良い気になって勢いづいていた。特に悪さはせず、人を傷つけるような曲がったことが嫌いだったので、ヤンキーというより、見た目が少しチャラくなっただけ、という所だろうか。
やはり上の学年の3年生は俺が気に食わない、
その頃からよく友達とカラオケに行くことが増え、友達や後輩からは歌が上手い上手いと持て囃されていた。身長のみならず体の成長が遅かった俺は声変わりをする時期も遅く、中学の合唱コンクールでは女子生徒と同じパートを歌わされていた。歌を歌うことにも抵抗があり、あまり人に聞かせるのが好きじゃなかった。
そこで当時、たまたま友達が俺のカラオケの動画をTwitterで俺に無許可で載せた結果まさかのまさか。それが軽くバズってしまったのだ。
近辺の他校生も皆俺を知っている。
どこ高校の歌が上手い人という認識をされた。
照れ臭く、謙遜はしていたものの悪い気はしなかったから受け入れた。
そこから俺は壮絶なイジメに会う。
上級生からの呼び出し。靴の中に炭酸飲料を入れられ、寝てる間に髪をハサミで切られる。
歌が上手いからって、一年の頃はセットもせず真面目に部活をしていたくせに色気付いて調子に乗りやがって。そんな俺を取り巻く妬みが俺や俺の周りすらも巻き込んだ。
俺はクラスの中心だった。
授業中は騒がしく、昼休みは彼女と弁当食って放課後は制服のまま遊びに行った。
陸上しかして来なかった俺は人生で1番学校が楽しいと感じていた。
だが一変。
それまで俺と仲の良かった奴らまで俺の悪口を言うようになっていった。俺を庇った奴らが今どんな事をされてるのか、スクールカーストの上部に逆らえず、皆長いものに巻かれ次々に俺を裏切って行った。昨日までお前歌が上手いんだから歌手になれよと背中を押してくれていた友達さえも次の日からは敵だった。
今現在付き合ってる彼女は当時付き合った彼女で彼女自身も俺の彼女だからという理由で軽いイジメにあった。その時いた友達や俺を庇ってくれた奴らも皆、イジられていた。
俺はそれを見るのも聞くのも耐えれず。
彼女には俺と別れてくれと言い、庇ってくれる友達や共にいてくれる友達には俺と縁を切ってくれと言った。俺のせいで巻き添えを食らっている事に俺はひどく責任を覚えそう告げ学校を退学した。
ただ唯一彼女だけは俺から離れなかった。
嫌われても良い覚悟で接したのに。
突き放したのにそれでも俺と付き合ってる事を隠さず俺を好きでい続けてくれた。
それだけが支えだった。
高校を退学しても俺の周りへのイジメはすぐには収まらなかった。そんな時彼女が不登校になってしまい、彼女の父親から呼び出され彼女の家に行った。正直すごく怖かった。
家に着くなり。
お前なんで娘を守らないんだ。
なぜ見捨ててお前だけ学校を辞めるんだ。
好きな女に向けられた銃口を無視するのか。
酷く怒られ、酷く否定された。
涙も出ず、ただ自分を責め続けた。
俺なりに守る方法はそれしかなかった。
俺が退学を覚悟で暴力で解決しようとしても、その後彼女が逆恨みをされ何かあったとしても俺はもうその学校の生徒ではない限りすぐには守ってやれない。守る手段は覚悟を決めて俺がそこを去ることだった。
大人は俺をわかってくれないどころか。
話する聞いてくれないのか。
教師は俺や俺の周りがイジメられてる事を知っていながらも見てみぬフリをして助けてくれないのか。
大人なんて大嫌いだ。
心の底からそう思った。
まるでその考え自体が間違っているかのようでその時俺は新しく人を守れる術を身につけなくてと思い、少しずつ非行に走って行った。
友達に裏切られ人間不信で、何があったかも、何が辛くて学校を辞めたのかも、親には話すことが出来なかった。
気が気じゃないような毎日を送り。
憎しみと復讐に燃え俺は悪い奴らとつるむようになっていき、そこで居場所を作った。
人に傷つけられるのが怖くて、傷つく前に傷つけて仕舞えば俺を怖がれば嫌な思いをしなくて良いと言う護身時な考えで生きていた。
退学後に通った普通科の学校でも気に食わなければ手を出し、人を睨み怖がらせる事が強さだと思い込み力でねじ伏せたいた。
まぁそんな事はしてれば結末は見えてる。
2度目に通った高校は強制退学。
そこで俺は代償の嵐の中にいる事に気づく。
実は高校を退学後、音楽活動を本格的に始めていた。カラオケに通う事から始まり、オーディションを受け合格し、インディーズレーベルに所属をしたが、社長と口論の末、退所。
でも裏切った奴らを傷つけてきた奴らを見返してやりたくて、リベンジをしたくて。
俺は本気で歌を歌うことにのめり込んだ。
2度目の高校を退学してからは半年ほど時間があった。適当にバイトをしながらライブ活動を続けてたり、SNSで歌を発信する事に専念をした。そこから大きく関わる人が変わっていってやんちゃしていた奴らから音楽が好きな奴らとつるむようになっていった。
でもやはりトラウマから心の底から人のことは信用できず。クールなフリをして一線を置き続けた人間関係をしていた。
音楽クソ楽しい。最高。
でも当時19歳の俺は必死だけど人を信じる事は愚か、どこか不安を抱えながら生きていた。
でもどんな環境でも愛してくれていた彼女との将来も考えていた為、高校だけは出たいと思い親に土下座をし、春から新たに通信制の高校に通わせてもらうことになった。
彼女は高校を卒業後、就職をし真面目にキャリアを積んでいた。
そこで俺はしっかりと高校を卒業する事を決めその後のビジョンを明確にする事にした。
不真面目な奴らとの関わりを全て切り。
好きなことに没頭してる奴らと過ごし。
自分がどうあるべきかを常に考えて過ごした。
そうして晴れて21歳の俺は2年間の単位を取り終わり、卒業の見込みが立ち、人生初めて就活をし始めた。音楽以外やりたいことなんて別にねぇしな。まぁ適当な企業に入るか。
そんな気持ちで求人を探し、1番給料の高い会社を訪れ内定を貰った。
内定を貰ってからの卒業までの数ヶ月間。
俺はバイトしてひたすらに遊んだ。
括りが高校生と言うこともあり、扶養を超えない程度に稼いでいたから沢山お金があったわけではないが、できる範囲で生活をしていた。
独学で歌を学び始めて約2年。
色々な経験や感情、ノウハウを元に俺は初めてオリジナルソングを作ってリリースした。
反響はかなり大きかった。
9月のiTunesチャートでは24位を獲得し、ファンも増えワンマンライブをする程までになり、イベント主催や音楽での収入も大きくなり始め本気で音楽で売れたいと思うようになった。
だが初めて頑張った就活だし、内定も貰ったからそのまま就職をしてみようと思い4月から企業に勤めた。スーツを着て仕事をしてみたいと思った事もあり、それまで現場仕事や飲食店勤務だったと言うこともありサラリーマンをする事に憧れを持っていて恥ずかしい話、最初は仕事をする事に心を躍らせていた。
さぁ念願の就職。初サラリーマン。
頑張るか、やってみるか。
そんな意気込みは数日で何処かへ消えた。
人と喋れない。大人と喋れない。
自分でも心底驚いた。
その時思い出した。
大人が人間がどれほど残酷で冷徹だったかを。
一気にイジメを受けていた時の記憶や匂いや、場面がフラッシュバックした。
思い出したかのように。
心の奥底にあった思い出したくもない傷口が少しずつ痛んでくるかのように。
そうだ。俺は人が怖かったんだ。
大人に反抗期し、しょうもない力を誇示して。
牙を剥き目を背けていたんだ。
俺は20歳になる前にはかなり落ち着いていた。
それまでの悪さと言っても大したことない。
喧嘩しかしてきていない。
バイクにも乗らない。薬物もやらず物も盗まない。俺はヤンキーというより、ただ喧嘩だけしてきた奴、だった。
学校で暴れて、警察の世話になって親を泣かせた事を深く反省し、親との関係も良好になり、
大人として口調や立ち振る舞いに意識を向け気をつけて生活をしていた。
俗に言う丸くなった俺は、気に食わない事があっても怖くても受け入れるようにしていた。
人に牙を向く必要などないと言い聞かせ。
キレることもなく。
そんな俺にはもう社会という大人という人間という怖い存在の前で強いフリをし続ける事すらも出来なかった。
会社でいじめられたわけでもない。
理不尽さや窮屈な思いはしたけれど。
でも人間不信と、ストレスが俺の足を止めた。
1ヶ月後、素直に気持ちを伝え俺は退社した。
何やってんだろって俺は自分を責めた。
来る日も来る日も俺は自分を責めつずけた。
そしてしばらく胸の奥底にあったトラウマと憎しみのパンドラの箱が開いてしまった。
そこから前まで好きだった事や趣味。
音楽活動や、友達と遊ぶ事も怖くなった。
生きている人間という生物全てが敵に見えた。
どこにも俺の居場所は無い。
また同じ時と同じだ。
部活をしていた時と、歌を始めた時と、イジメが始まった時と同じ思いだった。
毎日何が苦しいのかも言い表せないくらい辛く消えたく、自分を責める事しか出来なくて。
被害妄想や、勘ぐりで人と距離を作り不眠症になり生活リズムも崩れ、飯の味もせず。
勝手に流れてくる涙に嫌気がさした。
ただ悲しく寂しい孤独な朝と昼と夜を繰り替えしてくうちに俺は死にたいとすら思った。
親に助けを求めたことがなかった俺は初めて辛いと告白し、病院に行った。
結果俺は鬱病と診断された。
心のどこかで数年前のイキがっていたチンピラのような気持ちが沸いてきた。
舐めんなや、そんなわけねえじゃん。
俺は喧嘩だって気持ちだって強かった。
そんな俺か病気なわけねえだろうが。
今まで1人でも強がって生きてきたんだよ。
でも受け入れるしかなかった。
退職してから4ヶ月が経った。
薬での治療を拒み、カウンセリングも行って居ない、治す方法など決まっていない。
だから俺は自分と向き合う事に決めた。
すぐに社会復帰しないといけない。
親に迷惑かけたく無い、男としてのプライドがある、彼女との将来を見据えていたい。
そんな気持ちを持っていても。
俺はバイトすらする事ができなくなっていた。
もうダメだと思った。
俺はダメ人間で、生まれてきたことが間違い。
こんな思いをし続けて、惨めに生きるくらいならもうこの世の中に俺は居なくていい。
そう思い先日、俺は飲みかけのビールやらコーヒーやら、服やらタバコのシケモクが転がった落書きだらけのスラム街のような自室を綺麗に片付け、陸上で取った数々のメダルやユニフォームや賞状、使っていた物や着ていた服を整理し、家族一人一人に遺言を残し家を出た。
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