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弟が逝った

弟が44歳で亡くなった。
半年前から具合は悪かったが回復して、自分の足で歩き、ご飯も食べるまでに元気になっていた。
一安心していた矢先、再び緊急入院し、その1ヶ月後に逝ってしまった。

弟は生まれつき重度の障害があった。
五体こそ満足ではあるが、知的レベルは0歳児。ダーダー、ワーワーと言った発声はあるもコミュニケーションは全く出来ない。
…出来ないと、姉である私はずっとそう思っていたが、母は違う。
「そうなんか、〇〇したかったんやなぁ。ごめんなぁ」
「美味しかったんかぁ!また作るわなぁ」
弟が言わんとする事が分かるらしい。
生活全てに介助が必要な弟。
母は24時間体制、付きっきりだった。
母は弟の為に生きていたと言っても過言ではない。

弟が26歳の時に母が倒れた。
家族を含む周囲の人達に施設に入れる事を勧められた。
このままでは共倒れになると。
悩み考え、弟を施設に入れる事を決断した。
父はこれを「弟の自立」と言ってポジティブだった。
私はこれを「弟からの解放」と感じ喜んだ。
母はやりたい事が明確にある人だ。
若い頃は考古学を勉強したいと大学進学を希望していたが、経済的理由で断念した。
高校卒業後は銀行勤めをし、結婚後も働きたかったが時代の波やら空気に負けて断念した。
結婚後も何かしら働きたかったが、諸々の理由で断念した。

弟を遠方であるが、最も信頼出来る施設に入れた。
その後もずっと、「良かったんやろか」「あの子に悪い事をした」と落ち込んでいた。
でも、その度に私は「これで良かったんや!」と力強く言葉を掛けた。

母は働き出した。
生き生きしていた。
そして、弟はしょっちゅう家に帰ってきていた。2週間に一回は二泊三日で自宅にいた。
でもコロナ禍となり、約4年くらいはそれも叶えられずだった。

今年の始め、母が急に「あんた、今年いくつや?」と聞いてきた。
「今年、46」
「そうか。ほな、あの子は45か」

弟と私は年子だ。
誕生日は決して忘れないが、中年になった子どもの細かい年齢まで覚えていないらしい。

「あの子、50歳までは生きられへんやろうって。もしかしたら、それよりもっと短くて今年、来年何かあるかもしれんやって」
私と目も合わせず、カップに入ったコーヒーをうつろげに眺めながら母が言った。

母は40年も前から占い師さんにみてもらっていたらしい。

「ええー、そうなん。でも元気みたいやし、それはないやろ〜」と一笑した。
「いや、あの子、ものすごい痩せたんや。ご飯も食べてるのに、なんでこんなに痩せるんやろうって看護師さんが言わはるねん。ほんで、5分だけ面会させて貰えるから会いに行ってきてん。ほな、びっくりしたで。骨と皮だけや。」

それから弟はあれよあれよと調子が悪くなった。

それはないやろ〜…とヘラヘラしてから半年で弟は亡くなった。
弟は嘆くこともなく、抗うこともなく、受け入れるでもなく、今ある状態に身を委ねる様に逝った。
そこに何らかの意味があるのかさっぱり分からない。
宗教的な哲学的な運命的な何かこう…、厳かな壮大で清らかな、人間が何か語りそうな意味付けしそうな、そういう後出しジャンケンみたいなやつはないんだと思う。
ただあるがまま…いや、そんな事すらないのでは。

弟の最期はとにかく立派だった。
むちゃくちゃかっこよかった。





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