非合理な特殊解 2

「おはよう。はい、ちょうだい。」
夏子はデスクで眠っている2〜3人に声をかけながら手を出すと、
「あ、あんがと。」
などと言いながら、寝ぼけ眼で皆それぞれ百円を各々の机から取り出し、夏子へ渡した。これはPCを立ち上げている間にする、夏子の毎朝の日課になっていた。

夏子はそのお金を持って、会社の入ったビルの1階にあるコンビニへ向かい、コーヒーを買う。昼は事務の派遣社員をしている夏子が、茅場町にあるこの中規模のIT会社に勤務するようになってもうすぐ1年が近く経つ。業務は雑用。最初はとても暇な仕事だったが、人間関係が出来てくると、そう暇でもなくなった。業務契約に書ききれない細かな事が、どこにもたくさん転がっているものだ。

最近は所属するソフトウェア開発部内の社員の好みも、大体分かるようになった。今日の3人の好みは、新人の森田くんは砂糖が2つ、峯岸さんは砂糖とミルク1つずつ、河本さんはブラック。

コーヒーを持ってオフィスへ戻ると、まだウトウトしている3人のデスクに配った。デスクへ戻ると、私の向かいに座る、夏子と同じ27歳の中国人女性エンジニアの王さんと目が合った。
「近藤さん、おはよう。元気そうね!」
王さんは無邪気な笑顔で言った。
「おはよう。王さんもね。」
私もつられて笑顔になる。
「韓国での機器の通信試験、一人で行ってくるの?」
「部長に今日ランチ奢ってもらいながら考える。」
「ははは。」
「王さんも乗っちゃえ。ランチ。」
「ふふふ。」
王さんのアイサインが飛んでくる。背後を部長が通るらしい。

「あの、近藤さん」
50代の、昔バスケットボールをしていたと言う長身の部長が声をかけた。
「おはようございます部長。」
私は後ろに向き直り、挨拶をした。
「昨日の宜しくね。」
「はい、日帰りできるなら。口止め料は、坦々麺と杏仁豆腐がいいです。派遣会社の契約内容には無いけど、内緒にします。」
「はは。宜しく。」
「あの、王さんと森田くんもいいですか?2人に説得されたんです。業務内容に無くてもやってみなさいって。」
王さんは笑いながら、部長に
「私言ってない!」と手で否定している。
森田くんは訳がわからずポカンとしている。
「ははは。分った。」
部長は肩に背負っていた鞄を外しながら席へ向かった。

「良かったの?」
王さんが言った。
「うん。昨日部長から頼まれた時、口止め料ランチでいいかと言われたけど、2人にだけより4人くらいいた方が楽しいかなと。だから、部長と部内の20代3人の4人ではどうかなって。まずかったかな?」
隣の島の森田くんは、一応納得した様子で一度頷くと、すぐに仕事に取り掛かった。
「森田くんは大丈夫みたいね。王さん行かないの?」
「行くよ。ありがとう。」
夏子は笑顔で返すと、この日のタスクを確認した。

この日4人は早めに休憩を取った。ビルの外はもあもあとした湿気と暑さで、それから逃れるように4人は中華屋へ入った。会社の裏通りにある古びたその中華屋の中には、まだ数人の客しかいなかった。

「日本は大中小のたくさんの会社が似通った技術開発競争をして効率的だとは思えませんが、部長はどう思いますか?」
席へ着くなり、王さんが部長に言った。
「そうだな。」
予想外に始まってしまった議論に、部長も少し戸惑いつつも、一応答え始めた。スイッチが入ると、王さんの議論は止まらない。残り2人はその議論について行くのを早々に諦め、店から出された水をのんびりと飲んだ。
「急にごめんね。お昼寝したかった?」
夏子は森田に言った。
「大丈夫。」
森田は24歳の新入社員で、この数ヶ月で周りの先輩達のように身なりがどうでも良くなってきていた。髪を梳かすなんてことは今週はしていなさそうな雰囲気だ。
「ちゃんと帰ってます?」
「帰ってるよ。勤務の日は、1日おきくらい。」
「よくやれますね。」
そう夏子は言いつつも、自分もたまにしか家へ帰らないのは同じだと思った。
「席の周りの先輩達が凄すぎて。」
森田の表情は、意外ととても清々しかった。
「そうなの?同じことをずっと出来るって凄いですよ。大学は何をしてたんですか?」
「ロボットとか作ってた。」
森田が言うと、王さんがAIについての話を始めた。
ご飯を食べている間は、ほぼ王さんの将来予測のひとりがたり状態だった。私は知識が無さすぎてみんなの言っていることの意味のほとんどが分からなかった。

食事を済ませ中華屋を出ると、またあのもあもあの中を歩いた。前を歩く部長の身振り手振りは、森田に何かアドバイスしているようだ。森田も笑っている。
二人を眺めながら歩いていると横を歩く王さんが急に
「日本ではあなたのような人でも楽しく生きていけるのよね。」
と言った。夏子は思いもよらない角度からの指摘に不思議な気持ちになった。
「どう言うこと?」
「気を悪くしたらごめんね。なんと言ったらいいか難しいんだけど。日本に来てから思うけど、人間の性格も大事にする文化だよね。」
「そう?」
「数値化できるものとできないものがあるけど、どうも日本は数値化できないものも割と大事にしてるみたいな気がする。」
「そうなの?」
「8年前日本に来るまでは数値化できないものはあまり意味がないというか、興味がないというか、考えたことがあまりなかった。」
「そう?例えば?」
「そうね、例えも難しいけど、あなたはお金に興味ある?」
「あるよ。」
そう答えながら、借金の多かった1年前より、借金が減るにつれてどんどんお金に興味がなくなっていくのも感じていた。
「そうかな?ちなみに目標とかあるの?」
「うーん、分かんない。とにかく、日本が平和であってほしい、ということかな。まあ、目標があるとすれば、多趣味なおばあちゃん。」
「ふーん。私これまでにそんなこと言う人聞いたことない。つまんなくない?」
「そうかな?つまんないかな?」
色々なことが起こる日常を面白く生きている自信だけはあった夏子は、苦笑いになった。

席へ戻ると、携帯のメールをチェックした。夏子は平日会社の業務終了後、毎日銀座のお店で働いていた。お昼休みと15時ごろの休憩時は、そのお客様に送る文章を考えた。
この日は退社後に六義園でお散歩してからお店に行くことになっていた。一緒に散歩してくれる人と、2人で吟行してから銀座へ向かう予定だった。その人からのメールには、
「世の中よ 道こそなけれ 思い入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる」
とだけあった。何かあったのだろうか。
夏子は
「話聞きますから。」
とだけ返信した。

そして今今の雑用を終わらせると、夏子は王さんが話していたAIについて検索し始めた。

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