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【小説】一九八二年、僕はエロ本の出版社に入った。#003


#003 雨も降り出した

 年が明け、十一月から行われていた入社試験の結果、さらに六名ほどの新入社員の入社が決まった。公にはされてなかったが、電球頭の上司は編集局長という立場で人事にも深く関わっていたので、応募者の履歴書返送作業は僕がやった。だからおおよそのことは自ずと知ることになったのだ。同じ頃、国城がアサハラの紹介で下請けのデザイン会社に移ることになった。首になる前に再就職先を探してやろうという、アサハラの温情だった。けれどその一週間後、五十崎が首になった。
 僕だけがなぜ生き残ったのかはよくわからなかった。ただ、とりあえず五十崎がいなくなってしまったので、僕は電球上司の実話誌と、島谷さんのグラビア誌、両方のアシスタントを兼任することになった。
 どちらにせよ、会社内で言葉を交わす仲間はいなくなった。バイト中の唯一の楽しみは五十崎やスズキくん、国城と昼飯を食いにいくことだったが、その習慣もなくなった。麹町というのはビジネス街で、ランチタイムを過ぎるとほとんどすべての店が夕方まで休憩に入ってしまう。五十崎たちがいたときには何とか時間を合わせて外へ食べにいったが、もうその必要もなくなった。
 会社を出てすぐ、新宿通り沿いに持ち帰り寿司の「京樽」があったので、そこで巻き寿司などを買って、自分の机で本を読みながら食べた。あの頃はまだコンビニがどこにでもあるわけではなかった。少なくとも麹町から半蔵門界隈には一軒も存在しなかった。
 本ばかり読んでいた。ロバート・B・パーカーの『失投』を読み『約束の地』を読み、『レイチェル・ウォレスを捜せ』を読んで『銃撃の森』を読んだ。ビル・プロンジーニの『誘拐』を読み『失踪』を読んで、ロジャー・L・サイモンの『カリフォルニア・ロール』を読み、P・D・ジェイムズの『女には向かない職業』を読んだ。

 そんなふうに遅い午後、やはり自分の机で「京樽」の寿司を食いながら本を読んでいたときだった。
「おい、君──、えーと、ユーリくん」と呼ぶ声がした。
 顔を上げると、レイアウト用紙の束を抱えた桜庭健太郎が立っていた。
「このコピー機、使い方を教えてくれ」と少し怒ったように言う。
 どうして僕の名前を知っているのだろうと思いながら立ち上がった。
 桜庭はこの会社で最も異色で、飛び抜けて異彩を放つ存在だった。年齢は三〇代半ば。編集局長の電球上司より一〇歳は年下だが、肩書きは取締役だった。しかも取締役でありながら社員ではなく、新宿通りを挟んだマンションの一室にある、「桜庭編集室」と呼ばれる分室を主宰していた。
 いつか飲み屋でアサハラに「桜庭さんはなぜ社員じゃないんですか?」と聞いたことがある。アサハラは笑って、「あの人はさ、社員になるとすぐ組合を作ってストライキをしちゃうんだ。でも桜庭さんの作る雑誌は売れるだろう?」と言った。
「だから首にするわけにもいかない。そこで社長が怒りにまかせて、『お前は金輪際社員にはしない、勝手にやってろ』と言って桜庭編集室ができたんだ」
 五十崎たちがいた頃、スズキくんが桜庭編集室へお使いにいって、「あそこはお洒落だよ、だってFMラジオが流れていて、編集者はロックやポップスを聴きながら仕事をしてるんだ」と言った。五十崎は「それに比べ、コッチは競馬中継のファンファーレだもんなあ」と苦笑した。
「桜庭編集室」は桜庭を含め六名ほどの精鋭部隊で、普通のヌードグラビア誌やエロ劇画誌も作っていたが、アイドル雑誌の『シュガー』、美少年雑誌の『JUNE(ジュネ)』、ゲイ雑誌の『さぶ』など、先端的な雑誌を編集していた。
『JUNE』は耽美的な少年愛の世界を描くもので、今日のBL(ボーイズ・ラブ)の走りだ。
 男性同性愛者向け雑誌には伊藤文學編集長による一九七一年創刊の老舗『薔薇族』があるが、同誌が美青年を主軸としたのに対し、『さぶ』は現在でいう「ガチムチ系」、短髪で筋肉質の逞しい男たちが褌姿のヌードを披露するなど、独自の世界観を打ち出していた。どちらにせよファッションやアートの世界にゲイの人が多いように、『さぶ』には『薔薇族』同様、文化の匂いがした。

 そして何より僕は桜庭健太郎を、南伸坊・著『さる業界の人々』(一九八一年)の登場人物として認識していた。これは椎名誠の一連のスーパーエッセイ(『さらば国分寺書店のオババ』『哀愁の町に霧が降るのだ』)と同じ情報センター出版局から発行された本で、当時大いに話題になったものだ。
 内容は南による「今、エロ本の編集者がいちばん面白い!」という確信から、二人の「S」という頭文字の人物が主人公。南より年下の「Sくん」が白夜書房『写真時代』編集長の末井昭、そして年上の「Sさん」が桜庭健太郎なのだ。この話を聞いたとき、この悪夢のようなギャンブル会社にそんな人物がいたのかと心の底から驚いた。
 桜庭は映画プロデューサーとして知られる荒戸源次郎と、僧侶で劇作家の上杉清文が立ち上げたアングラ劇団「天象儀館」にいたらしい。そこには若松孝二の若松プロダクションにいて、後に「スーパーエディター」と呼ばれることになる秋山道男もいた。一九七三年に荒戸が製作、自ら主演し、やはり元若松プロで天才脚本家と呼ばれた大和屋竺が監督した映画『愛欲の罠』には、桜庭も秋山と共に出演している。ゲイ雑誌『さぶ』のキャッチコピー<男と男の叙情誌>は、秋山道男の手によるものだ。
 そんなことが一瞬のうちに頭を駆け巡っていたのだと思う。僕は少し混乱しながら桜庭にコピー機の使い方を教えた。社長と打合せがあって、そのために次号の表紙デザインを複写して渡す必要があったらしい。それにしてもなぜアルバイトの僕の名を知っていたのだろう? 誰かに紹介されたこともなく、遠くから「あれが桜庭さんか」と数回見かけたことがあるだけで、挨拶したことすらなかった。

 コピーは結局のところ、「ああ、もう、面倒だから君がやってくれ」と言われ、僕が数枚取って渡した。
 受け取ると桜庭は僕を正面からジッと見据え、
「君はあれか、将来作家になるつもりか?」と言った。
 突然のことでまた驚いた。大学を卒業してからシナリオライターの学校へ通ったことはあったが、作家になろうなんて考えたこともなく、そもそもなれるはずもなかった。
「僕は編集者になりたくてこの会社に入りました」と、何とか言った。
 桜庭は角刈りのような短髪で、度の強い眼鏡をかけている。レンズが重くてずり落ちるのだろう、顔をしかめて鼻で持ち上げるような仕草をした。それが癖になっているようだ。そうやって眼鏡を鼻で上げながら顔をしかめ、
「そうか。コピー、ありがとうな」とだけ言って、レイアウト用紙を小脇に編集部を出て行った。僕のいるのは三階で、社長のデスクは四階にある。そちらに向かったのだろう。
 僕はしばらく桜庭の出ていった扉を見つめていた。

「まあ、あの人はそういう人なんだよ」
 新しい編集長、つまり少し前までは五十崎の上司だった島谷さんは言った。「変わり者なんだ。だから時々突拍子もないことを言う。そして周りにいる俺たちは迷惑する」と笑った。
「桜庭さんはなぜ僕を知ってたんでしょう」という問いの答えだった。作家云々のことは言うと笑われると思ったので黙っていた。
 場所は新宿三丁目の焼き鳥屋で、四階にいる社長はかつて東京三世社という出版社で名編集長と呼ばれ、七〇年代半ばに巻き起こったSM雑誌ブームを作った人だと、そのとき島谷さんに教えてもらった。関西で発行されていた伝説的な猟奇雑誌『奇譚クラブ』から団鬼六を引っ張ってきて、メインの作家に据えて大成功した。桜庭健太郎も荒戸源次郎が「天象儀館」を立ち上げるまで、その会社の編集者だったそうだ。
 ところがある日、社長は団鬼六と派手な喧嘩をしてしまい、東京三世社を飛び出し現在の会社を設立した。その際、様々な出版社から編集者を集めた。桜庭はそれを機に再び編集者に復帰した。電球頭の編集局長やアサハラも、そのとき別の出版社から合流した移籍組だそうだ。
「だから根本的に、ウチの会社は寄せ集め集団なんだ」
 そう言う島谷さんは、まだ二五歳と若いので生え抜きだ。
「俺は競馬が好きだから競馬新聞の記者になりたかったんだが、働かなきゃならなかったからな。手っ取り早く給料がもらえるココに入ったわけだ」
 早稲田の三年生のとき、恋人だった現在の奥さんが妊娠した。島谷さんは卒業時には既に父親だったという。

 その日は僕が初めて、ヌード写真の撮影というものを経験した一日だった。二月の初旬、身も凍るような冷たい雪が降った。だから新宿御苑辺りでやるつもりだった外撮りは、地下街の「新宿サブナード」でやった。そこから小田急線世田谷代田駅近くにあるカメラマンのマンションに移動し、メインのヌードを撮った。
 カメラマンは野上さんという四〇年配の人で、島谷さんによれば「かつては『週刊プレイボーイ』や『平凡パンチ』で活躍したが、今は落ちぶれてウチみたいなところで撮ってる」とのことだった。
 被写体となる女の子は、ヌードモデルというから派手な感じなのだろうと想像していたが、どちらかというと地味なごく普通の娘だった。二〇歳くらいだろうか、小柄で美人でもなく、かといって不美人でもなかった。島谷さんに「じゃあ脱いで」と言われると、まるで風呂場に入るときのようにあっさりと全裸になった。
 見知らぬ女の子の裸を目の当たりにするというのは、興奮したりドキドキしたりするのかと思ったが、嘘のように何も感じなかった。ただ、また由紀子のことを想った。モデルの娘は子どものような顔つきながら、豊かな肉体をしていた。乳房がとても大きかった。背が高く細っそりとして、男の子のような胸をした由紀子とは、同じ女性なのにまったく別の生き物のようだった。
 野上さんのマンションは八階で、窓からは環七通りを挟んで下北沢の街が見渡せるはずだった。けれど雪はどんどん激しくなり、空はグレイに煙っていた。由紀子はまだ、あの映画館「下北沢オデオン座」の裏側の、線路沿いのアパートに住んでいるのだろうかと考えた。それとも今はもう、新しい恋人と別の部屋で暮らし始めたかもしれない。
「新宿サブナード」の外撮りではレフ板を当てたりやることがあったのだが、室内に入りストロボ撮影になると、編集アシスタントの仕事はなくなった。だからずっと窓の外の雪を眺めていた。傍らにはやはり元ヌードモデルだったという野上さんの若い奥さんがいて、横座りで静かに編み物をしていた。

 野上さんのマンションを後にしたとき、「今日は君の記念すべき初撮影の日だから、ちょっと飲んで帰ろうじゃないか」と島谷さんは言い、この店に連れてきてもらったのだ。「特写のときは、酒を飲んでも大丈夫なくらいの経費も出るしな」とのことだった。
「特写」とはカラーグラビア用のヌード撮影のことだ。他の取材や企画物の撮影とは区別してそう呼ぶ。桜庭編集室で作っている『ギャング(The Gung)』や、社長が責任編集的な立場で関わっている『ギャルズ・アクション(Gals Action)』の二誌は、月に特写を八本やっていた。アサハラの雑誌が四本、他は島谷さんの本を含め月に一本しか特写を起こせない。
 逆に言うと『ギャング』と『ギャルズ・アクション』で月に十六本も撮っているので、他の雑誌はセカンド、サードの使用で充分ヌードグラフ誌が作れてしまうという寸法だった。他に特写をしない劇画誌にもカラーグラビアはあり、官能小説誌にはカラー口絵と呼ばれるヌード写真のページがある。
『ギャング』と『ギャルズ・アクション』は双方とも一〇万部近い部数を誇っていて、他の雑誌は二誌が撮り下ろす特写の写真を無料で使い廻すことができる。しかもどれもがそこそこ売れていた。会社は業績を倍々ゲームで伸ばしていた。アルバイトを切って新卒を入れ、もっと出版社らしい出版社にしたいと思うのも無理からぬ話だった。

 一時間ほどそうやって焼き鳥を食い、酎ハイなどを飲んだだろうか。桜庭健太郎のこと、名編集者と呼ばれた社長のことなど、もっと聞きたいと思ったのだが、会社に新卒で入った島谷さんはあまり知らないようで、また興味もないようだった。不意に「よし、今日は君に〈覗き部屋〉をご馳走してやろう」と立ち上がった。
「明日からは五十崎くんの代わりに頑張ってもらわなきゃならないからな」
 店を出て靖国通りを渡り、歌舞伎町方面へと歩いた。「覗き部屋」という性風俗が流行っているという話は聞いたことがあった。約二年前の八〇年頃、「ノーパン喫茶」なるものが大ブームになり、その後「ファッションヘルス」やマンションの一室で経営されるトルコ風呂「マントル」といった新しい性風俗が、雨後の筍のように生まれた。けれど僕はまったく無知だった。そして競馬や麻雀にしか興味がなく、愛妻家で本来女遊びなどと無縁な島谷さんも、実はあまりよくは知らないようだった。
 気の進まないまま、けれど「いいです、帰ります」とも言い出せず後をついていくと、島谷さんは客引きのような男にジャケットの袖を掴まれ何やら強引に誘われていた。そしてこちらに手を振り、
「オーイ、ココでいいみたいだ」と叫んだ。
 細い階段を降りて地下の店内に入ると、別々に個室に案内された。畳二畳くらいだろうか。「覗き部屋」というくらいだから覗き窓のようなものでもあるのかと思っていたが、そこは四方の壁に囲まれた窓の一つもない、まるで監獄の独房のような空間だった。
 しばらくすると一人の女が入ってきた。痩せぎすで歳は三〇代後半くらいか、黒のブラジャーとガーターベルトのセット、網タイツにハイヒールという出で立ちだった。
 どぎつい化粧をしていて、歳はもっと上かもしれなかった。派手なソバージュの長い髪を頭の上で盛り上げるように結わいているその姿は、ジョン・ウォーターズが監督したカルト映画『ピンク・フラミンゴ』に登場するディヴァインを思わせた。
 女は「ハイ、いらっしゃ〜い」と言いながらブラジャーの肩紐をずらし、両肘で胸に谷間を作るようなポーズをしたが、ひどく痩せているので胸に谷間は生まれなかった。「これで半ストね〜」と言った。意味がわからなかった。片手で胸を隠しながらもう一方の手で器用にショーツを膝まで下ろし、かがんだような格好で「ハイ、これで全ストなのね」と言った。その間約三〇秒。「ハーイ、これで終わりで〜す」と個室から押し出されると、黒服の男が「お連れ様はもうお帰りになりました」と言った。

 いったい何が起こったのかわからないまま地上に出て、新宿駅へと歩いた。「君に〈覗き部屋〉をご馳走してやろう」と言った島谷さんは、文字通り僕をあの店に送り込んで金だけ払い、自分はそのまま帰ったのだろうか。あるいはこういう「風俗遊び」というものは、一旦店に入ったらそれぞれ勝手に行動するのが「流儀」のようなものなのだろうか?
 そんなことを考えながら駅への道を急いだ。時計を見るともうすぐ午前〇時、小田急線の最終まであと十五分だ。後からわかったのだが、島谷さんと僕が迷い込んだのは「桜通り」という、歌舞伎町でも有名なぼったくり店の密集する地帯だった。でもそのときは、当然何も知らなかった。ただ外は昼間の雪が雨に変わり、どんどん強くなっていた。
 急いで靖国通りを渡ろうとして思わず「ああッ──」と声を上げた。傘を、さっきのあの薄暗い個室に忘れてきたことにやっと気づいた。小田急で最寄り駅まで帰っても、実家までまた二〇分は歩かなければならない。取りにもどろうか? でも、同じような風俗店が密集している通りで、もうあの店の場所を正確に思い出せる自信はなかった。何よりそんなことをしていたら終電を逃してしまう。まったくツイてなかった。
 どうしようもなくてともかく走った。ずぶ濡れになって走り続けた。雨はいつまで経ってもやまず、強く、ひたすら強く降り続けるだけだった。

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