ホーム

 いつもは開けない缶の中身を覗いてしまったのは、私の不運からなったのか、連日通じて筆を走らせ脳に糖分を欲したからなのか。兎に角今朝の私は蓋を開けていた。

 昼と言うには少し早い時間、私は無くなった飴玉の補充を為る可く欠伸を零しながら着物に袖を通す。指先まで凍らせるような寒さと、その指から全身まで溶かしてしまいそうな暑さの繰り返しに、最早もう今年何度目の衣替えをしただろうか。部屋の温度を見れば、二四度。日陰故かそれとも。一種の博打をかまして玄関の扉を開けた。降り注ぐ日光が、ちり、と肌を焼く。どうやら今日はハズレだったようだ。特筆して言うほどの怠惰ではないのだが、やはり着物というものは一度着るにも脱ぐにも時間を要するので、どうにも家に戻る気にはなれない。荷物——といっても財布のみだが——を確認し、鍵を掛け、二、三歩。……暑い。今日は日傘も買って帰ろう。結局なるだけ陰を歩くよう心がけるところに落ち着いた。
 それでも暑いものは暑い。多少気温が高い程度では首上に汗を掻かない身なのだが、そんな自分の額にも薄らと浮かべてしまいそうだ。近年のそれの原因は温暖化だ氷河期の終わりだなど争っている番組を見たが、この際どちらでも構わない。神様や、寒さは受け入れますから暑さだけはどうにかしてくださいまし。脱水症状を抑えるべく自動販売機から水を購入していた私は独り言ちた。羽織を置いてきたことがせめてもの救いか、と深く溜め息をつき、たった一駅の距離であったが、日光から逃れる場所を求めて側の駅に向かった。これもまた、私の不運だったのだろうか。

「えぇ……と、この釦は……」
 普段電車に乗らないお陰か、切符を買うことにすら手間取ってしまう。いっそ『あいしーかーど』とやらを手にしようかとも考えるが、それに金を払うのならば切符を買う方が数段安いと私は思う。急ぐ訳でもなし、途方に暮れる訳でもなし。おまけに電車に乗ることなんてひと月に一度あるかどうか。他にも色々存在するが、兎に角今の私には買う理由が見当たらなかった。慣れぬ手つきで改札を通り、他の生き物の邪魔をせぬよう通路の端に寄って看板を凝視する。……なるほど、さっぱり解らないことだけは理解した。看板にはこの路線にある大きな駅の名前と、〜行き、の表示しか無く、どちらの方向かも把握していない私には何一つとして情報を与えられず。駅員に聞こうにも、何とも云えぬ羞恥心が勝ってしまう。カードを買うくらいならば、此処に路線図を置くために金を使いたい。寧ろ自らそうさせてほしいくらいには、何も解らなかったのだ。切符を袖に仕舞い、その場で暫し考え込む。右か、否左か……
 ——えー、間もなくぅ、電車が参ります。黄色い線のー内側まで——
 ……止まっていても仕方がない。上に行けば詳しい図もあるだろうと、近くにある階段を上った。思えば、初めから素直に駅員を探しておけば、或いはあのようなことにならなかったのかもしれない。

 どうやらあの声はこちらのホームから流れていたらしい。駅員が笛を一つ吹いて、電車の発進するのが見えた。天井に吊られた電光掲示板で次の時間を確認して、漸く見つけた路線図を覗く。……安堵の息。この方面で間違いないようだ。通過を一つ挟んで次の電車に乗れるとのこと。迷わず来ていれば間に合ったであろうが、それを悔やんでもどうにもなるまいと、線路に向け設置された椅子の端に座って待つ。ホームには親切に屋根が備えられている。然しそれを以てしても降り注ぐ日光の暑さを塞ぎ切ることはできないと、水を一口一口飲みながら萎む。摂った側から水分が抜けていく様な、そんな心持ちさえして。歩く方が早かったか、否これで良いなど無駄な思考までも回してしまう。
 不図、階段から誰かゞ上って来るのが見えた。同じように搭乗する者だろう、二◯代ほどの男だ。少々傷の入った革靴に、いやにぱっきりしているスーツ。髪こそ整えられているものゝ、この世の終わりを目の当たりにした様な沈んだ顔つきには、その年齢を実より十は老けているかと思わせるようだ。それにしても、横目に眺める限り、どこか覚束ない足取りに見える。決して良いとは云えない顔色に得も云えぬ違和感を感じるが、声を掛けようか迷う。これでも多少の倫理などは持ち合わせていると自負している、目の前に具合の悪い者を見て何もしないほど薄情ではない。但し、中には気の触れている者も居るので、その見極めは必要だが。これは、はて、さて……もう一方の端に座ったのを見て、様子を伺おうと口を開いた。
「あの、」
 と、私が声を掛けると同時にこちらへ振り向いた。幽霊でも見た様な、怯えた捨て犬の様な、そんな速さで。
「なん、な、何ですか」
 男は少し吃って、尻つぼみに返す。しまった、不審に思われたかもしれない。考えてみれば、かように暑い日だというのに厚着で居るなど、余程その格好を好んでいるか狂人かのどちらかである。そんな者に突然話しかけられて、動揺しないものがあろうか。だが此処で引くのも却って不自然なので、少し間を空けた後、次の言葉を紡ぐ。
「その、何だか具合が宜しくないように見えたもので……何処か悪いところでも?」
「だ、大丈夫です、何も、健康で、いや、はい、すみません」
 やけに男の視線が泳ぐ。他人と話すのが得意でないのか。否。これは何か嘘をつく時の。
「そうですか? ごめんなさいね、気になってしまって、つい」
「あ、はい、そうですか、こちらこそごめんなさい」
「いえ、いえ、大丈夫ですよ。どうかお気になさらず」
 相応の理由があるのだろう。必要以上に踏み込むのは辞めにして、そこで会話を切り上げた。それから私は男に気を向けることもなく、唯、沈黙。この暑さのお陰か平日の昼間なお陰か、将又はたまた過疎な街のお陰か、ホームには二人ぎりであった。再度時間を確認すれば、なんだ、通過を合わせて十三分も空いている。携帯端末すら持たなかったものだから、こうして椅子に座ったり、雲の流れるのを眺めることくらいしか。……何もせず待って時間を消費するのもなんだか勿体無いと感じるのは其の血の性なのか。対して気分でもないのに厠へ寄ろう等と席を立つ。同時に、ポーン、電車の接近を知らせる放送が鳴った。これが過ぎても八分やそこら、行って戻って三分で……数分の計算の為に足を止めた。止めてしまった。普段どれだけ、移動ついでに他へ頭を回していようが、此の時の私は、止めてしまったのだった。
 遠くから、線路を鳴らす重々しい車輪の音が聞こえる。近付くと共に警笛を少し鳴らして——やけに長い。はて動物でも入ったかと振り向いてみた。と、先の男がホームの縁に立っているのが視界に飛び込む。あれは止めなくば拙い。何を為る可きだ、緊急停止か、否それよりは本人を、今更?
 二三度の足踏みを経て漸く走り出した頃には、男は、線路へと身を預けており。私は、その瞬間が、一秒をとおに分けたような、己が蠅にでもなったような、そんな永遠を覚えてしまって。一瞬、ほんの一瞬。あの男の背に羽が生えたかと空目して。噫彼は最早何もかもの枷を断ち切って、あの世へ歓迎されるのだと、本能のうちに理解した。
 電車を急停止させようと引かれたブレーキが鳴らす甲高い金属の摩擦音で、耳をつんざかれる。直後。ぱあん、と、警笛と肉の弾ける音とが交じり、駅構内に響いた。踵で速度を殺して止まる。咄嗟に顔を隠した袖と、それでも露出した手と額に、生暖かい液体の掛かるのが判った。目の前で何が起きたのか、理解をしても頭が追いつかない。此の手を退かす事を躊躇してしまうのに、自然と腕が下りていく。明るくなった視界に広がったのは、そこらの地面、椅子から電光掲示板、其れを吊るす天井にまで惨い程に飛び散った血と、彼を形成していた肉片。先まで私の隣に居た人型は凡て、最初から此処には居なかったかのように、消え去ってしまった。
「そんな、」
 反射的に背中から倒れそうになるのを、引いた足で支える。一歩、二歩。込み上げる不快感を口許に添えた手で押し戻し、駆け付けた駅員の焦燥を孕んだ叫声などは全く余所に、転がる様にして階段を降りた。直前に目が合ったあの駅員は、私を疑うだろうか。それを差し置いても、今は何処かへ身を隠したい。混乱する意識の中、厠の個室へ走り込む。閂を掛けて、形ばかりの扉を背に、へたった。鼓動が早い、目眩がする。あの男は初めからその気で此処へ来たのか。何故自分は気付いてやれなかった、何故かように半端な声の掛け方をした、何故あの瞬間用も無い事のために席を離れてしまった、何故生命の危機に対し直ぐ止めに走らなかった、何故、何故。どれだけ他へ意識を向けようと、延々とそればかり思考してしまう様は脳に杭を打たれたかの如く。よもや止めを刺したのは自分か。自分が変な気を起こさなければ、あの男は。
「っ……う、」
 がらんどうの胃から吐き出すものなど一つも無いのに、噎せ返る鉄の臭いと自責の念が一度に押し寄せ、耐えきれず目の前の便器へ突っ伏して嘔吐く。結局何も出はしなかった。吐き気は治まらない。涙が目に溜まって滲む。
 ——泣かないで。笑いなさい。
 そんな声が、私の脳裏に過った。
 そうだ、私は。泣いてはならない。何時だって凛と立ち、笑みを絶やしてはならない。笑わなくば、笑いなさい、笑え。浅い呼吸を整えようと一度深く息を吸い、背筋を伸ばして上を向く。口から細く吐くと同時に再び下を向き、両目を手で覆った。額へ付着した血液に指が触れ、ぬるりとした感触を残す。
「はっ……、は、ふふ。ふふふふ……」
 湧き上がる笑い声は息と共に溢れ出し、静かな厠の壁に反射して響く。他の誰に不審がられようが、私に止める術などは無かった。少しでも許してしまえば後は流すのみ、ひとしきり滅茶苦茶に笑ったと思えば、其れっ限り。握っていた意識の糸を手放した。

「お客様ー。大丈夫ですか。お客様ー」
 どれくらいの時間が経ったろう。駅員が扉を叩く音で目が覚めた。手に付いた液体はすっかり赤黒く変色している。
「ごめんなさい、少し寝ていたみたいで……大丈夫です」
 流石に血に塗れた顔を見せるわけにも行かないので、扉を挟んで答える。駅員はそれを聞くなり、そうですか、と一言残して立ち去った。生き物の気配が無いのを確認して、そうっと個室の閂を抜く。それから慌てゝ洗面台へ行けば蛇口を回し、水で勢いよく顔を洗う。不図、鏡に映った自分の姿を覗いてみた。
「……酷い顔ね」
 ハンケチの一つも持たずに出たものだから、備え付けの手拭き紙を二三枚借り顔を拭う。髪の濡れたところも少し拭き取って、後は足早に帰ることにした。この街が過疎であることに感謝したのは、最初で最後だろう。
 今日に立てた用事は、数日経って開けた缶の中身に思出すことになった。

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