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44商売2・ブランド

上の画像は、【近江牛】の子。死ぬ為に生かされている事を考えると、日々、幾多の生命をいただいて自身の生命が維持されている事に感謝でしかない。比較的新しい食文化の中で、上級位置にある肉牛の【近江牛】の肉質は、わがままな人間の為に、わがまま味覚の趣向に対応した肉を生産する生産者の熱意と努力によって、生産技術を高めて、消費者の永年の支持を集める事によって、消費者側の欲求が生産者側の熱意と努力が合致して生まれたモノで、消費者側から付与された【近江牛ブランド】の名声に、生産者の努力研鑽の歴史を感じる。

《作るものではない!作られるモノだ!》
【ブランド化】という言葉を、昨今よく聞くようになった。
しかし、私は、違和感を抱く時が多い。
生産者側が、作りだすものではなく、消費者側の評価と支持が有って、自然と作り出されるものだと思うからだ。即ち、消費者の多くがその産物に同じような評価を下し続ける事が、決定する要件の基本であろう。
生産者側が、ブランドを生産物に抱かせても、消費者が支持をしなければ空回りである。自信を持って生産する生産物に生産者が「ブランドだ!」と冠した行為を行っても、消費者の評価と支持が最優先されてこそ、その言葉が生まれるはずだ。逆に、失望を与えると負の意見の拡散は、超高速だ。
昨今、農産物生産者や生産地域は、安易にその言葉を使い過ぎているように感じる。他の農産物と自身の生産物の優秀性を謳いたいのであろうか?
少しでも、高価な商品としたいのであろうか?
その意図が、謳われる農産物があまりにも多くて、うんざりもする。
例えば、【京野菜】というブランド。これは、京野菜の【京】という部分が、消費者に京都のイメージを与えていて、高級野菜のイメージを与えるのに成功している。しかし、少し調べれば、付与される条件が理解に苦しむ。
私は、【京】が何なのかが理解できない。品質の優秀性を示すものでもないし、消費者に京都のイメージ付けをしているだけに過ぎないと思うからだ。別項で、賀茂茄子を記述した内容とも重複するが、伝統的に生産していた地域以外で、農業所得向上を目的にして生産され始めた農産物が、歴史的経緯を考えれば、ほんまモノではない事を隠し、あいまいにする【京】が付与されている。壬生菜・九条ネギ・山科茄子・堀川ごぼう・伏見甘長・万願寺とう・・・等もその類と言わざるを得ない。厳密にいえば、全てをあいまいにされているように感じる。JAと地方自治体が、【本物を表示するブランドシールを添付した生産物こそが京野菜】としきりに叫ぶのであるが。
私にとっては、その行為は謎でしかない。
何度も述べるが、ブランドは、生産者側が作るものではなく、消費者側によって作られるものである。消費者側の良否判断が一番最初で、その次に支持が生まれる。そしてその良否判断が崩れる事がない生産物を提供する事によって、構築されていくものだと言い切れる。
ブランドは名物と名産は違うという事の理解を認識する生産者の良識にゆだねてみたくも思う。

本心=もう、うんざりだ。
良いモノはブランドを冠しなくても、評価されて継続的に支持をされるのだから、生産者が謳わなくても消費者は高価でも納得ができよう。しかし、最初から、ブランドを冠されて、且つ、謳う農産物には、目に触れる度、懐疑が先になってしまう私である。

本日はここまで。
では次回。

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