危険と煙草を呑みながら

日本航空の空の旅は快適だった。Netflixと睡眠を交互に繰り返しながら、およそ八時間のフライトを乗り越えた。ジャカルタの国際空港である、スカルノ・ハッタ空港に到着したのは午後六時だった。はじめての海外旅行だったため、日本語がどこにも見えず、どこからも聞こえない空間に興奮した。
これが海外か。
一人で来ていたものの、心細さはなかった。新しいものに刻一刻と触れている状況に気持ちが高揚しているだけだった。税関の手続きを済ませ、日本のお金をインドネシアの通貨であるルピアに交換すると、タクシー乗り場へと向かった。自動ドアを通過し、外に出ると、熱気が押し寄せてきた。インドネシアは湿度が高く、日本の暑さとは少し異なっていた。体にまとわりついて離れないような、鬱陶しい暑さで慣れるまでに時間がかかった。キャリーケースを転がしながら、ホテルに行くためのタクシーを探していると、愛想のいい男が話しかけてきた。
 「タクシーをお探しですか?」
私は、どうせキャッチだろうと思い、無視をした。しかし、男はそれに負けじと話しかけてきた。横目で服装を確認すると、キャッチの割にはフォーマルな服装をしており、胸にはsoekarno-hatta’s taxi service(スカルノ・ハッタ空港のタクシーサービス)と書かれおり、空港が運営するタクシーサービスであると気づいた。
 「待ってくれ、行きたいところがあるんだ。連れて行ってくれないか?」
私は、さきほどまでの冷たい自分が嘘であったかのような態度で男に話しかけた。
「もちろんさ、どこに行きたいんだ?」
しつこく話しかけていた男は、さっきよりもテンションが上がっていた。よく見てみると、服装だけではなく、眉毛や髪の毛に至る、顔の細部までがしっかりと整えられていた。
「アザナ・スタイルホテルだ。ここから、10分もしないはずだ。」
「アザナ・スタイルホテルか。わかった。向こうにタクシーがあるから、そこまで連れて行こう。」
とりあえず、キャッチではないことを確認し、私は安心していた。これから、十日間もインドネシアで旅をするため、一発目でぼったくりに遭っていては今後が心配になるところだ。それに、旅の前日まで海外旅行の経験がある友人から、再三。ぼったくられない方法を聞いていたため、海外でお金をたかられる奴はよほどのバカだろうとさえ思っていた。
 男は、タクシー乗り場に着くまでの間、旅の目的やジャカルタではどこに行くのかということを矢継ぎ早に聞いてきた。私は、青い火山が旅の目的であることやジャカルタの旅の予定は決めていないということを伝えると、男はジャカルタの観光地をたくさん教えてくれた。空港は海外との玄関口であり、いわばその国の顔でもある。そのため、その国の質が問われる場所であると思っていた私は、政府が観光サービスに力を入れているため、空港直属のタクシーサービスがあるのだと考えた。
 そうやって、男と会話をしながら歩いているとタクシーの前まで来ていた。重いキャリーケースをトランクに乗せてもらうと、後部座席に座った。一人で乗るにして大きすぎる革製の椅子に横たわっていた。いくら、日本航空とはいえ、八時間も座ったままでいたため、疲れが溜まっていた。横になったまま、タクシーが発車するのを待っていると、窓が空き、ここまで案内してくれた男がお金を要求してきた。
「お金のことなんだが、60000ルピアだ。」
「ええー。ちょっと高いな。もう少し安くできないか?」
「難しいな。」
「じゃあ、やっぱ他のタクシーを使うわ。案内してくれてありがとうな。」
私が体を起こし、座席から離れようとすると男は対応を変えた。
「待ってくれ、50000ルピアにしてやるから、行かないでくれ。」
50000ルピアとは日本円にして、五百円である。日本人の私からすると、車で12分かかるほどの距離をワンコインで行けるのは格安であるなと感じた。
「わかった。じゃあ、50000ルピアで手を打とう。」
「了解だ。」
財布から紙幣を取り出し、スカルノ元大統領の顔が印刷された、青色の紙幣を男に渡した。
「ちょっとまってくれ、これは5000ルピアだ。オマエの財布に赤色の紙幣が入ってないか?それを五枚くれ。」
暗い車内で赤色の紙幣を五枚取り出し、男に渡した。
「ありがとう。じゃあ、いい旅を。」
「ああ。」
値引き交渉を終え、お金を払い終え、タクシーに揺られた。車窓から見える景色は面白かった。空港の近くは高速が通っており、道路もネオンで彩られていた。ビルも高く、人の数も車も多かった。しかし、空港から離れホテルに近づくにつれて、道路は暗くなっていた。ホテルの麓には、露店がたくさんあり、バラック小屋が立ち並んでいた。空港から6kmも離れただけで、こんなにも経済格差を感じるものなのかと私は驚いていた。舗装されてない道の上で体を大きく揺らされながら、車に乗せられること数分、ホテルに到着した。チェックインを済ませ、七階にある自分の部屋に入ると、荷物を床に投げ捨て、靴を履いたままベッドの上で横になった。一息つき、体の力を抜いた。旅のプランをほとんど決めていなかったため、片手でさきほどの男が言っていた、観光地のことをネットで調べていた。国立博物館や銀行博物館などを見てみたものの、どれも魅力的には思えなかった。やることがなくなったため、趣味であった海外の通貨観察を始めた。財布から四種類の紙幣を取り出し、紙幣に写っている人物のことを調べていると、とあることに気づいた。タクシーの男が私に要求してきた赤い紙幣が100000ルピアだったのである。つまり、私は50000ルピアではなく、500000ルピアを払っていたのである。その額、日本円にしておよそ5000円である。
 まさか、これって…。
私は、横にしていた体を起こし、スマホでスカルノ・ハッタ空港のタクシーサービスのことを調べた。画面上に映し出された文章は衝撃的なものだった。
 インドネシアの空港は、タクシーサービスを提供していません。なので、空港の人間を装って近づいてくる人間は確実にぼったくりなので、気をつけましょう。
 してやられたのである。私がうまくやっていたと思っていた値引き交渉すら、彼らの演技でしかなく、手の内で踊らされていたのである。「自分はぼったくられない」とか「ぼったくりにあうやつは馬鹿だ」と高をくくっていた自分こそが真のバカであったのだと気づかされた。
 時刻を確認すると、19時半を過ぎていた。ハングリーでもバカでもあった私は、近くの大衆食堂で何かを腹に入れようと思い、googlemapで飲食店を探した。しかし、ホテルの近くには高速道路と普通道路が通っているだけで、どこにも飲食店がなかった。ジャカルタ市内の方にでれば、たくさん食べる場所はあるのだが、距離が離れていた。だが、長時間のフライトで疲労がたまっていたため、市内にまで出る体力が残っていなかった。仕方が無かったので、フロントでタクシーをチャーターし、もう一度、空港に戻った。国際線のあるターミナル3には、KFCや吉野家などの日本人にもなじみが深いファストフード店があった。せっかく、インドネシアに来たのだからチェーン店でご飯を食べるのはやめようと思っていたため、空港内にある、インドネシアにしかない店を探したのだが、どこもしまっていた。一時は、このまま次の朝まで何も食べずに過ごそうかと思ったものの、唸りを上げる自分の胃袋を抑え込むことができず、A&Wという名前の、私にとって、最も縁がなさそうなハンバーガー屋で晩御飯を食べた。ハンバーガーとポテトとドリンクのセットを頼んだのだが、全部で900円ほどだった。インドネシアの物価を甘く見ていたため、ファストフード店で1000円近くも取られたことに、少し驚いた。
インドネシアの経済力が日本を追い抜く日もそう遠くはないな。
香辛料が効いた、ハンバーガーを食べながら、自国の未来を憂いた。かつて、日本に対して憧れを持ち、留学先や出稼ぎの場所として日本を選んでいたインドネシア人の数は今となってはどれくらいになっているのだろうか。詳しいデータはないが、少なくなっているだろう。これから先、日本を出稼ぎの場所、あるいは先進国として認識してくれる国は、この東南アジアにどれくらいあるのだろうか、そもそも、インドネシアを旅行先として選ぶ日本人はどれくらい、いるのだろうか。ご飯を食べ、脳に糖分が回ってくると、私は思案に明け暮れた。気づいた時には、さっきまで目の前にあったジャンクフードがなくなっていた。腹八分ではあったが、追加で何かを注文する気にはならなかったため、店を後にして、タクシー乗り場へと向かった。
 タクシーはすぐに来た。ぼったくられたことから、反省をした私は、ホテルで「Blue bird」というインドネシア専用のタクシーアプリをダウンロードしていた。Blue birdは旅行者向けに作られたタクシーアプリであり、目的地を設定すると、現在地からの距離が割り出され、それに応じた金額が設定されるというもので、相場通りの金額でタクシーを利用することができるというアプリであった。私はタクシーに乗ると、改めて明日からの旅程を考えた。ジャカルタに魅力的な場所がないということを知ってしまったため、行きたい場所ではなく、やりたいことを考えた。すると、大衆食堂でローカルフードを食べることや、友達を作るなど、やりたいことがたくさん浮かんできた。
明日は、とりあえずジャカルタ市内に出よう。何か見たいものがあるわけではないが、どこかにいって誰かに喋りかければ何かが起こるだろう。また、ぼったくられるかもしれないが、それはそれで面白いではないか。
私はそう思った。車窓から、空港を眺めていると、ある場所がみえた。さきほど、客引きに嵌められて、私がまんまとタクシーに乗車した場所である。それをじっと眺めていると、自分がお金をだまし取られた現状を再度、思い出し腹が立ってきた。怒りと同時に悔しさも立ち込めてきたため、客引きがいた場所に向かって、中指を立てた。すると、ふと対向車のライトがタクシーの中に入ってきて、中指を立てる自分自身が窓に反射しているのが見えた。遠くにいる客引きではなく、なんだか、嫌な気分になった。自分自身に中指を立てているかのような気分にもなった。タクシーの運転手に機嫌が悪いことを悟られないように、小さくため息をつくと、窓から体を背け、ホテルに着くまでの間、目を瞑った。

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