あたまのおかしさってなんやろ

ワイ自身は特に頭おかしいってわけではないんやけど、ワイの周りにいた東大とか京大にいった天才たちってのは軒並み変わったやつばっかやったんよなぁ。また、ただ賢いってだけじゃなくて美術的にセンスがある人間とか経営センスがある人間も同じような感じやったわ。つまりな、能力が突出している人って変わってんねん。なんでなんやろ、変わってることと能力値が高いことに何の相関関係があるんやろ。今回はそれに関する「解」を紹介していくで。
まず、賢い人ってのは他の人が考えないようなことを考えるねん。コペルニクスとかデカルトとかガリレオをみたら一目瞭然やろ、あいつらは自然現象に宗教的回答が出ていた時代にあえてそれを疑ったんやで?これは現代でいうとな、「重力ってほんまにあるんかいな?」って疑問を持つことと根本は同じやと思うんねん。変わっとるやろ?また、それだけじゃなくて感性が大衆のものとかけ離れている人間いうのは言動までもが大衆からかけはなれてんねん。なぜかというとな、人の考えというのは必ずと言っていいほど行動に出るからやねん。こうして考えると賢さってのは頭のおかしさの十分条件やと言えるとワイは思ってんねん。一応、誤解を避けるためにいっておくとここでいう頭のおかしさってのは作られたものではないねん。世の中には自分のことをガイキチなどと自称しているにも関わらず人目を気にしてる“偽物の”ガイキチとかがいるけど、あんなのは今回ワイが言及している“頭のおかしさ”には入らへん。じゃあ、賢いガイキチと普通の人の違いってどこから来るんやろ?風ってどこから発生するんやろ?と思った、そこのクソガキちょっとまてぃ、それに対する解も用意しとるで。まぁ結論から言うとな、それは気質と体験やとおもうねん。まず本物の気違いってのは気質が変わってんねん。例えば、カントなんかは毎日決まった時間に同じ行動しかとらないという変わった性格をしていたで(生まれつき)。また、ワイの体験でいうとワイはな実は人が他人に関心がないという仮説があって高校時代にそれを立証できたからこそ、恥という感情がなくなったねん。まぁもともとの気質があった点も否定できないが。ワイの場合は気違いなだけで賢いないという先の時代“敗北者”じゃけのう。閑話休題、お前誰なん?いや、画面の前のお前だよ。どういう権利があってワイのブログ読んどるん?ワイはお前に購読権を与えた覚えないで、ほんま不快(深いい)やわ!二度とくんじゃねぇぞ?おらわくわくすっぞ?。

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