ディストピア2-9

美術の先生が突如として変わった。これまでは今村先生という女性が我々の美術を担当していたのだが、ある時から急に吉ヶ谷先生という中年の小太りの男性教師に変わった。そうして、そうなったのか正確な理由は覚えていないが、悪い理由ではなかったことだけは覚えている。
「バウ!」
騒がしかった美術室の中に野生の声が響き渡った。
なんだ、犬でも迷い込んできたのか!?
そう思って周りを見渡してみても、どこにも犬はいない。なんと、声の正体は吉ヶ谷であった。鶴の一声とはまさにこのことかと思ってしまうほど、一瞬で教室は静かになった。みんなが黙った理由は恐怖よりも困惑であるような気もしたが…。
一瞬の沈黙の後、我々は作業を再開した。パレットに垂らした絵具を筆で軽く触り、画用紙に彩を与えた。他の色も使おうとなったときは黄色い容器に入った水で筆を洗い、パレットにもう一度、筆をつける。この作業の繰り返しであった。絵が苦手であった私は黒板の左側にある美術の本を読んで、色の使い方や物体の書き方を学びながら絵をかいていた。
顔を見上げると、教卓で神本と原島、その他の人間が教師の元に群がっているのが見えた。
何をしているのだろう
そう思って観ていると、神本が突然大声を出した。
「スタープラチナッ!」
彼は、ジョジョの奇妙な冒険に出てくるキャラクターの名前を叫びながら吉ヶ谷のことを殴る素振りをしていた。私は彼のとっぴな行動に笑っていた。茶番の相手を生徒だけではなく教師にまで広めようとする神本の姿が面白かった。
どうせ、冷たくあしらわれるだろう。
そう思っていたが、実際は違った。
「シルバーチャリオッツ!」
なんと、吉ヶ谷も茶番に参加したのである。神本は予想外の反応に少し喜んでいた。
「ええ!先生、ジョジョ知っているんですか?」
「ああ、ちょうど俺が学生のときに連載されていたからな。時間を止めるDIOのザ・ワールドとかも知ってるぞ」
「おおー」
一連の会話を観ていた私は彼らの茶番に参加したい気持ちがふつふつと沸き上がり、絵画などそっちのけで教卓に向かった。
「俺もジョジョ知ってますよ」
「おお、そうかぁ~」
教師は感心したような反応をした。そのため、先ほどと同じように吉ヶ谷に対して茶番を吹っかけてみた
「オラぁ!」
パンチをする素振りをした。すると、彼の反応はまたしても予想外のものだった。
「バウ!」
なんと、今度はノリに乗ってくれず怒ったのである。私はてっきり、彼が乗ってれると勘違いしていたため、急な怒号に驚愕した。
「お前ら席につけ」
「ええ、なんでですか」
「なんでですかって授業中だからだ」
至極真っ当な回答である。そもそも、授業中に碌にやることもせず、戯れている方が間違っているのである。
またしても、教室は静かになった。といっても、ものの五分程で誰かが喋り始めたのをきっかけに直ぐにうるさくなった。席をたって、友人と喋っている人や手洗い場で水遊びをしている人もいた。各々が自由なことをしている、手の付けられない状況であった。さすがの吉ヶ谷もその状況をみて呆れたのか、あまり注意をしなくなってきていた。
本人がどう思っているかは分からないが、こんなときジョジョの奇妙な冒険に出てくる「ザ・ワールド」のように時間を止められたらいいなと吉ヶ谷は思っていたに違いない。なぜなら、時を止めることで静寂は訪れるからである。それくらい、教室の中はうるさかった。
私は、後ろにいた富岡や玉木と駄弁りながら、絵を描いていた。修学旅行の班が思った通りにならなかったという不満や、お菓子やスマホといったものをどうやって沖縄まで持ち込むかということを話し合っていた。すると、神本が突然、咳を立ち上がって叫んだ。
「ザ・ワールド!」
彼の声と共に、教室にいたほとんどの人間が静まりかえり、まるで時間でも止められたかのようにその場に静止した。ある者は筆をもったまま、ある者は首を90度ほど傾けたまま、ある者は右手を挙げたまま静止していた。つまり、教室にいた生徒の全員が本当に時が止められたかのようにして振舞ったのである。
私自身もその一人であったが、あまりもの連帯感の強さに驚愕していた。
「な、なんだお前ら」
急な出来事に、吉ヶ谷は笑いながら、訥々と質問した。しかし、彼の質問には誰もこたえなかった。なぜなら、時が止まっているからだ。五秒ほどが経ったとき、みんなは何事もなかったように動き出した。私は富岡たちとしていた会話を再開した。結局、教師に対して時間停止のことを説明するものはいなかったが、どういうわけか、吉ヶ谷はあまり言及してこなかった。

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