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『ゴジラ-1.0』感想――生き残った男たちの「終戦」を描く感動ストーリー

 先日、山崎貴監督の最新作『ゴジラ-1.0』(ゴジラ マイナスワン)を観てきました。迫力満点の映像と緊迫感、ゴジラと戦う男たちの覚悟と信念を描く、感動の映画でした。いやなニュースばかりが目に付きますが、今年の最後に良い作品に巡り合えてよかったです。

 『ゴジラ-1.0』は、大東亜戦争が終わり、国土の大部分が焦土と化した昭和20年代の日本が舞台です。元特攻隊の敷島(神木隆之介)が、天涯孤独ながら託された赤ん坊を育てる典子(浜辺美波)と出会い、助け合い暮らしていたところに、太平洋の海からゴジラが襲います。

 ゴジラと戦うことになるのは、戦地から帰還した元兵士たちと、出征せず生き残った人々です。偶然にも生き残ってしまった男たちが、自らの過去と向き合いながら、大切な家族を守るため、もう一度命を賭してゴジラと対決します。

 山崎貴監督は、日本を代表するCG技術(VFX)を使用した多くの映画を世に送り出してきました。今作でもその技術が如何なく発揮されています。ゴジラが街を破壊する迫力や、戦闘シーンで、軍艦がゴジラと正面から向き合った時の絶望感を、大胆に表現しています。

 しかし、なにより私が衝撃を受けたのは、そのストーリーにあります。
 私は『ゴジラ-1.0』を山崎貴氏による『永遠の0』の外伝的続編だと思っています。いくつかのシーンで、『永遠の0』の対比ではないかいう点がありました。

 主人公の敷島は生き残った元特攻隊員です。『永遠の0』は、零式戦闘機(ゼロ戦)に乗って玉砕した特攻隊員を描きましたが、本作の敷島は生き残りました。そして、敷島が本作で搭乗したのは、ゼロ戦の後継機として開発され、戦争には投入されなかった戦闘機です。
 また、敷島に血の繋がった家族はいません。典子も明子(赤ん坊)も、偶然出会った他人同士です。『永遠の0』の宮部には家族がいました。家族を守るために、敵艦に突っ込みました。

 私は、本作のテーマは「終戦」だと思います。1945年8月15日に日本が降伏し、大東亜戦争は終わりました。しかし、生き残った兵士たちは戦場での罪悪、恐怖、後悔の記憶を持ったまま「戦後」を生きてゆかねばなりません。彼らの中の「戦争」は、簡単には終わってくれません。

 敷島は、特攻隊の責務から逃げ出して両親を失い、ゴジラから逃げ出して多くの仲間の命を失った、どうしようもない後悔があります。それは呪いのように敷島を縛り、戦後の世界で幸せになることを許してくれません。

 戦争は常に「死」と隣り合わせです。特攻隊の若者たちは、日本という国家と、そこに住まう家族を守るために、命を散らしました。彼らの犠牲のうえに、今の我々の生活があります。

 そして、戦争が終わり、焦土と化した日本で、残された人々は懸命に「生き」ました。家族が飢えないように、路頭に迷わないように、死に物狂いで生きました。彼らの献身のうえに、今の我々の生活があります。

 そこには、戦前と戦後という、非常に大きな価値観の転換があります。物語の冒頭で「死ななかったこと」を責められ、後悔してきた敷島は、大切な人を守るために、今度こそ死を選ぼうとします。しかし、かつて自分を責めた橘(青木崇高)に、「生きろ」と言われ、家族のために生きて帰ることを選択します。

 敷島は、忌まわしい過去の記憶と向き合い、受け入れ、自らの「戦争」を終わらせます。大切な家族と、その未来を守るために、生きるのです。
 百田尚樹氏は、『永遠の0』のテーマの一つは「人は誰のために生きるのか」であると述べています。そのテーマは、『ゴジラ-1.0』にも、共通しているように思われました。



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