2章13話 其の英雄の名は。
深呼吸をした、息を吸って吐いた。
そこに己が与えられた加護があることを確かめるように黄金の槍を強く握りしめた。
血液が煮えたぎっているかのように身体が熱く、神経は研ぎ澄まされ、思考は何処までも澄み渡っている。
月の邪神の使徒である魑魅魍魎たちは世界中の隅から隅まで暴虐を尽くし、大地を黒く穢すことに余念がない。
今、世界は、人類は戦争をしていた。
ありとあらゆる人種が、国が、月から降り落ちる異形の怪物と戦っていた。
どちらかの生命が尽きるまで。
「も、持ち堪えろ!なんとしてもこの戦線より後ろに行かせてはならない!」
一人の兵士が悲鳴のように叫んだ、彼らの背後には大きな街がある、彼らにはもう後退できる場所などなかった。
そうして叫んだ兵士が次の瞬間には頭を齧られ、胸に穴が空いて絶命している。
兵士の頭をバリバリと音を立てながら咀嚼する蛙頭の怪物が次の獲物はどれだと視線を彷徨わせ、目が合った兵士は震えながら剣を構えた。
剣を構えるしかないのだ、逃げる場所など何処にもないのだから。
蛙頭の怪物が舌舐めずりをしながら、この脆弱な人間をどうやって嬲り殺してやろうかと思案していると、横から割って入った蟷螂頭の怪物が腕から生えている大きな鎌でその兵士を剣や鎧もまとめて両断した。
縦に裂けた兵士をキチキチと硬質な音を立てて嘲笑う蟷螂頭に蛙頭が地団駄を踏んだ、俺の獲物だったのに、と。
蛙頭が次を探すとそれはすぐそばにいた。
槍を持った戦士だった、一目でこの戦士は強いとわかった。
舌舐めずりをしながら蟷螂頭に視線を向け、手を出すなよ、と話そうとして、異変に気がついた。
絶命している。
蟷螂頭だけではない、この戦場をつい先ほどまで支配していた異形が、使徒が、我々が死んでいた。
「gya...gyagya...」
「お前で最後だな」
蛙頭の視界に気色の悪いブヨブヨとした黄緑色の肌の怪物が映った。
不思議なことにその怪物には頭がなく、何故かを考える前に蛙頭は絶命した。
それは他とは少し違う個体だった。
生まれついて他の異形よりも賢く、身体は一回り小さいが素早くて力も強かった。
そんな蛸の頭をした異形は考えていた、人間の中には確かな強者がいる、それは理解していたし警戒もしていた。
しかし、これはなんだ?まるで我々月の使徒が赤子の様だ。
黄金の暴風が吹き荒れているのだけがわかる。
各地で好き放題に暴れていたはずの異形たちが地面に伏していく。
戦場の真ん中で、両手のセスタスを握りしめて構えた。大地に根を下ろす様に腰を下げ、大地に刺す様にどっしりと踏みしめた。
来るなら一瞬だろう、周りの喧騒など全くこれっぽっちもどうだってよかった。
聞こえるのだ、戦場を縦横無尽に駆けて我々を屠去る黄金の暴風の足音が。
見えるのだ、黄金に輝く大槍が返り血を一滴も浴びずに描く軌跡が。
感じるのだ、身震いするほどの重く分厚い殺意が。
大地が網目状に罅割れた、ギラギラと輝く黄金の閃光が爆音を鳴らしながら迫る。
隕石が落ちたかと思うほどの衝撃波が身体を突き抜けていき、だが拳はそれに反応した。
捉えることのできぬ閃光を、しかし蛸頭の拳は捉えて見せた。
横から殴りつけた閃光は軌道がズレて蛸頭の肩を掠め取った。
噴き出る血を傷口の肉を盛り上がらせて塞いだ。
本能から来る確信、今自分が相対している者はこの世界で最も強き者なのだと。
蛸頭は異形の口だが多少は話せるのだ、拙い人語で問いかけた。
「ナマエ、オマエのナマエはナンダ?」
「おいおい喋れるやつは初めてだぜ、いやそもそも一突きで死ななかったやつ自体初めてだったな!
俺の名前はウィル!主神の信徒だ!」
ウィルと名乗った男は軽い調子で名乗りをあげた。
主神というのがこの世界の神であり、我らの月の神と全く別種の存在だということは知っている。
だが、このような信徒が存在するとは知らなかった。
全身を滾らせている圧倒的なまでの覇気に押し潰されるような錯角を覚えた。
黄金に輝く大槍はこのウィルという男が片手で持っていると普通の大きさに見えてならない。
己が紛うことなき強者であるという自負がその表情から読み取れた。
「オマエは強者だが、オレも強者ダ」
蛸頭には明確な自信がある、月の神の使徒の中で、この異形の姿をした同胞達の中で、己が最も戦士として優れているという自信があるのだ。
爆発的なオーラが蛸頭を中心に弾け、両の拳が硬質化していき、バチバチと音を立てて紫電が迸った。
蛸頭がそうして構えれば、ウィルもまた槍を構え、静かに息を整えた。
睨み合う時間はそう長くはない、相手は槍を扱う戦士であり、拳で戦う蛸頭はリーチで負けている。
故に自分から仕掛けるべきだと理解していた、そうせねば機先を取れないからだ。
飛び出した蛸頭は己の過去最速の拳を空に放ち、纏っていた紫電が限界まで引き絞られた矢のように解き放たれた。
一歩、横に逸れただけでウィルは紫電の矢を紙一重で避けた。
ただ直線で飛ぶ矢などウィルにとって避けることは造作でもなく、それは蛸頭も察していた。
紫電の矢は攻勢を仕掛けるためのきっかけを作るためであった、ウィルの眼前まで躍り出た蛸頭が拳を振る。
並の戦士ならば血飛沫になって死ぬだろう拳をウィルは避け、続く拳の連撃も避け続けた。
蛸頭には目論見があった、必殺の策があった。
その槍でこの拳を弾いてくれさえすれば初見殺しの技があるというのに。
ウィルは槍を振るわずに神懸かった洞察力と反射神経を持って拳を紙一重で避け続けた。
策がバレている訳がない、心を読めるわけでもないはずだ、得意とする武器を持つ戦士が己の慣れ親しんだ武器を使わない訳がない。
まさか、主神の加護で何かを感じ取っているのか?
主神の加護などではないことを蛸頭は知ることはないだろう。
ウィルが生まれ持つその眼は、ありとあらゆる幻惑と虚偽を、魔術や幻獣種の能力、迷宮の仕掛けに至るまで全てを見抜く力を持つ。
ウィルはその眼で全てを見抜いた上で向かってくる蛸頭の拳を初めて槍を振るって弾いた。
否、拳を弾く事はできなかった、拳と槍がピッタリと引っ付いたのだ。
拳に突如として現れた無数の小さな吸盤がウィルの槍を捕らえたのだ。
「ッ!勝ッタ!!」
蛸頭はついに振るわれたその槍を片方の拳で捕らえることに成功し歓喜した、勝利を確信したのだ。
武器を使って戦う人間の戦士は武器を取りあげられれば脆いものだ。
この男とて槍を使って戦う戦士なのだから、槍を取り上げれば何もできないとそう思っていた。
ウィルは蛸頭の拳に吸盤があることも、それが強烈な吸引力で一度引っ付けば槍が離れない事も見抜いていた。
だからウィルは、地面を力強く踏み込んだ。
大きく息を吸って、両手で槍を握りしめ、蛸頭の異形ごと槍を持ち上げた。
拳が引っ付いたまま槍ごと持ち上げられた事に気付くよりも早く、蛸頭は地面に叩きつけられた。
叩きつけられた衝撃を受け、あまりにも滅茶苦茶な力技に驚きながらも蛸頭は体勢を立て直して槍を全力で引っ張り、懐に引き寄せた。
力勝負なら我ら異形も負けてはいないのだと、その剛力で頭目掛けて殴りつけた拳はウィルの手のひらで受け止められていた。
蛸頭が槍を引っ張った時には既にウィルは槍から手を離していた。
「悪いが別に槍を使わなくてもお前を殺す分には素手でも全く問題ないぜ。ただ槍を使った方が効率良くお前らをまとめて殺せるってだけだ」
呆気に取られた蛸頭が拳を引き抜こうとするよりも早く、その拳はウィルによって握り潰され、一瞬の猶予すらなく心臓も撃ち抜かれていた。
「オレを、コロシテモ、オマエ一人デハ、殺シ切レナイ、我等ハ、無限ニ、、、、」
戦士としての矜持を簡単に砕かれた悔しさからか、蛸頭は負け惜しみを言うかのように言葉を発していた。
「……そうだな、俺一人じゃ大変かもな。でも俺は一人じゃない」
ウィルの眼はずっと遠くを捉えた。
そこには旗が掲げられていた、無数の旗と銀に輝く騎士達がいた。
騎士達を引き連れて先頭を進む青い外套を旗めかせる一人の青年の姿も、ウィルにはしっかりと見えていた。
「この国には、大陸には、星には!お前らがどれだけ湧いて出てこようが全く問題ないくらいの英雄がいるんだよ」
蛸頭は既に絶命していたが、周囲で様子を窺っていた異形達に向かってウィルは語った。
其の英雄の名は。
「ラム、それがこの星の、英雄の名前だぜ!」
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