10話 セレーネ

 私の世界は無味無臭で灰色の世界だ。
ただ毎日を無為に生きている。

 私の名前はセレーネ・ライル・マーズ。
辺境伯家の長女で今年15になる。
私は辺境伯家の当主である父の傀儡であり、権力闘争の為の道具だ。
実の母親は私が5歳の時に亡くなった。
誰にも愛される事なく、母を亡くした私に父が告げた言葉は、「お前の婚約者が決まった。」だった。
婚約者は王都の中央貴族、大公家の人間で歳は当時で42、だから今年で52だろうか?
私は第6夫人になるらしい。

 幼かった私は訳が分からないまま、顔も知らない男に嫁ぐために教育を受けた。
算数や語学から、貴族としての教養や社交界のマナーとルール、ダンスやパーティーでの挨拶回りの仕方、例をあげればキリがないそれらを文字通り叩き込まれた。
少し間違えれば叩かれて、覚えるまでもう一度やらされる。
食事も決められたものを決められた時間に食べて、食事の時間も作法を学ぶ時間だから作法を間違えればまた叩かれ、食事を抜きにされることもあった。

 母がまだ生きていた頃に、ベッドの上で読んでくれた絵本を覚えている。
登場したお姫様は悪い怪物に攫われてしまう。
けれど月に向かって助けを求めて祈れば、英雄アウリクスが颯爽と現れて、悪い怪物を討ち倒し、お姫様を救ったと言う。

 私は毎晩涙を流しながら眠って、何百回と月に祈ったけれど、英雄は現れない。
私はお姫様じゃないから仕方ないんだと、いつしか祈るのをやめた。
いつからだろうか、花を見ても色が分からなくなった。
食事をしても味がしない。
紅茶の美しい香りもわからない。
心から笑えなくなった、見えない何かに縋る事も、期待する事もやめた。
涙も、もう流れない。

 この辺境伯家に来る来客はほとんどが大商人の使いか、大公家から来る密使だ。
客室で密やかに話す大公家の人間と父の顔を遠目に見たことがある。
大公家の人間の顔は欲に濡れた下卑た顔で、父の顔もまた野心に溺れたような顔だった。
中央の大貴族である大公家と、隣国に隣接する国境を警備する責務を負った辺境伯家が繋がりを持つことの意味など分からないし、分かりたくもなかった。

 大公家に嫁ぐのは15になってからで、それまでもう一ヶ月もない、私は結局この辺境伯家という籠から逃げ出すことなどできず、ただ命じられるままに生きている。
ああ、英雄アウリクス………もし、まだ貴方が生きていたなら助けに来てくれたのかしら。


 今日は珍しい来客が来るらしく、屋敷内が少しばかり慌ただしい。
召使いを捕まえて、誰が来るのか問えば、紅蓮の勇者が来るらしい。
紅蓮の勇者とは、今から2年前に主神から祝福と燃え盛る紅蓮の剣を授かり、厄災とまで呼ばれたとある幻獣種を10日間戦い続けた末に討ち滅ぼした生きる伝説。
『其方は厄災を祓う勇者である。』と主神から啓示を受けた者。

 まるで英雄アウリクスのようだけれど、その人物像はほとんど謎に包まれたままで、ただ女性であるとだけ市井では語られていた。

 私はその日、父に身なりを整え来客を迎える準備をせよ、と命令された。
紅蓮の勇者とは一体どんな人物なのだろうか、もしかすれば私を助けてくれるのだろうか。
密かに抱いた希望は、やはり儚く散った。

 1人の女性と2人の少年がこの辺境伯家に訪れた。
父は最初は3人と話をしていたが、そのうちオルカという女性とウィルという少年の2人と話をし始め、ラムというどこにでもいそうな平民の少年は客室に1人でいる。

 父は私に客室でこのラムという少年の相手をしておけと命じた。
私は命じられるままに、客室に入ってラムに挨拶をした。

「はじめまして、私は辺境伯家の長女、セレーネ・ライル・マーズですわ。
貴方はなんという名前の方かしら?」

 当然知っている名前を私は尋ねた。

「わわ、ぼ、僕の名前はラムって言います!は、はじめまして!」

 緊張しているようだった、それも当然だろう、こんな平民が貴族とまともに話をした事などあるはずもない。

「緊張なさらなくて結構ですわ。
私、貴方に聞きたい事がありますの。
噂に聞きましたのよ?オルカ様と言う方は、あの紅蓮の勇者様だとか!
本当なの?教えていただけないかしら!」

 実際に気になっていることを直球で聞いてみた。
すると、平民の少年は途端に顔を明るくして話し出した。
分かりやすい笑顔を作って相槌を打ちながら話を聞いていれば、なんとこの平民の少年は紅蓮の勇者様の弟子だという。

 それにも関わらず、ここに来るまで師匠が紅蓮の勇者と呼ばれている事も知らず、またどのような活躍をしたかも、その出自も、これまでどのようにして生きてきたかも知らないらしい。
どんどんと私の中で期待に染まっていた心が萎えて沈んでいくのがわかった。
それだけではない、続けて平民が語り出した、村や山で過ごした冒険の日々に私の心は酷く打ちのめされた。

「それでね!僕とウィルはそこに秘密基地を作ったんだ!村の大人達には秘密にしてるんだよ、すごいでしょ!」

「まあ!それはさぞ素敵な場所なんでしょうね!」

私には唯一無二の親友なんていない。

「最近になって、剣術が身体に馴染むような感じがあって、朝起きたら突然身体が覚えてるみたいに技がしっくりくるんだよね。
師匠にはまだ話してないから、次に修行した時に驚かせてみたいなあ、なんて!」

「お師匠様もきっとその急成長に喜ばれるはずですわ!その日が楽しみですわね。」

私も好きなことを好きなだけ頑張りたい。
教えてくれる優しい師匠に褒めて貰いたいって思えるような日々を過ごしたい。

「今日初めて領都にきてびっくりしたよ!すっごーい賑やかなんだね!全部が初めて見る物だから、あれはこれはって師匠やウィルに聞いて回ったんだ!
それで、3人で屋台?って言うお店で買った大玉飴って言うのを食べたんだよ!
綺麗で舐めると甘いんだ、領都の人たちはよく食べるのかなあ?僕は初めて食べて感動したんだよ!
辺境伯様の領都はいっぱい凄いんだね!」

「…………ええ、そうでしょう?領都マーズはここ周辺の都市では最も栄えている都市ですからね、物珍しいだけじゃなく様々な便利な道具に武具など、まだまだ凄いものは沢山ありますわよ。
……失礼、ごめんなさい、少し席を外しますわね?すぐに戻りますので!」

 私は客室から出た後に駆け足でトイレに入り、胃の中の物を全て吐き出した。
胃の中に何も無くなっても嘔吐は続いた。

………私だって好きなように友達と街を歩いて周りたいっ!素敵な人に恋をしてみたい!自由になりたいよっ!
なんで?私はこんなにも苦しいのに、あの平民は心の底から幸せに、楽しそうに過ごせているの?
どうして?どうして私は辺境伯の娘なの?長女として生まれたの?
自由になりたい、人の気も知らないで話すあの平民が憎い、ぐちゃくちゃになった頭の中を整理したいのに次から次に感情の波が押し寄せてくる。



 どれだけそうしていたか分からない。
私はぐしゃぐしゃになった顔を水で洗い流して拭いて、少しの化粧をしてすぐに元通りに整えた。
大丈夫、きっといつも通りに笑えるはず。

 客室に戻った私を待っていたのは憎たらしい平民の少年だけではない。
父である辺境伯と紅蓮の勇者、そしてウィルという少年が居て、父が話しかけてきた。

「セレーネ、明日の経済学についてだが、講師をしてくれているエビス殿がどうも足腰を悪くされたらしい。
こちらまでお越しいただくのは難しいようだから、お前の方からエビス殿の元に向かって講義を受けてきなさい。
お供には執事長と、オルカ殿の弟子であるラム君が護衛に着くと言う話になった。
分かったか?」

「畏まりました、では明日はその様に致します。」

私は父にそう言って恭しく頭を下げた。

「ふむ、それではオルカ殿、ウィル君、明日は坑道の調査をよろしく頼む。
既に作業員だけでなく調査に向かった辺境伯軍の兵も帰ってきていないのでな、くれぐれも注意してくれたまえ。」

その日はそうして解散になった。
勇者様と少年達は、明日は別々になってしまうと言うのにとても楽しそうに話をしていて、それが私には酷く眩しかった。
ああ、私は今、上手く笑えているだろうか。




 翌日の午後になって、身支度を終えた私は馬車に乗り、辺境伯家を出発した。
ゆっくりと進む馬車の御者は執事長が務めていて、馬車の隣を護衛役として平民の少年が少し早足で歩いていた。
この平民は護衛などした事があるのだろうか?しきりに辺りを見渡し警戒しているようだったが、とても慣れているようには見えなかった。
商人街はすぐそこで、護衛と言ってもきっと形だけだし、そんなに張り切っても領都の中で何かあるはずがないのに。

 少しして、エビス様のそこそこ大きな家にたどり着いた。
馬車が止まり、執事長が馬車の扉を開けた。
私はそのまま馬車から降りて執事長に声をかけた。

「講義は3時間ほどになると思いますので、それまでに戻ってきていただければ構いませんわ。」

 執事長は何も言わずに頭を深く下げて礼をした。
私はそれを一瞥した後、エビス様の家に入ろうとしたが護衛役としてきた平民が声を上げた。

「あ、あの、セレーネ様!僕は一体どのようにすれば、えー、良いでしょうか!」

そうだ、この平民がいたのだった。
ため息を押し殺して言葉をかけた。

「好きにして宜しいですわ、3時間後に戻ってこれば良いのですから、何をしても構いませんのよ。」

「わかりました!ではここで待機してますね!」

平民は執事長の真似をしたのだろう、深く礼をして、エビス様の家の前に直立した。
3時間ずっとそこでじっと立っているつもりなんだろうか、呆れた。
好きにすれば良いと思い、無視してエビス殿の家の扉を叩いた。

「はい、どちら様でしょうか?」

召使いだろうか?若い男の声が返ってきた。

「私はセレーネ・ライル・マーズですわ、こちらで講義を受ける予定で来ましたの。
エビス様に通していただけますか?」

扉が開き、男が顔を出す。
少し目つきの悪い男だった。

「聞き及んでおります、どうぞお入りください、旦那様は奥でお待ちです。」

私は招かれるまま家に入って奥の部屋に案内された。

 部屋に入ったが誰もいない、いや、知っている男性が、エビス様が床に倒れていた。
それに気がつくのと同時に、バタンッ!という音を鳴らして背後で強く扉が閉められ、私は召使いであったはずの男に後ろから首を絞められてそのまま気を失った。






 私は意識を取り戻した。
手足を荒縄で縛られ、どこかの廃屋の部屋の隅に放置されていた。
部屋には小窓があって、そこから僅かに見える景色は茜色に染まっていた。
つまり、昼時から既に5.6時間は経って夕暮れ時に差し掛かっていると言う事。

小窓から見える景色から察するにここは建物の3階か4階のはずだ。
そうでないなら小窓から何か物が見えても良いはずだから。

「だからなんだと言うのかしらね……私は攫われたのかしら?どうして?」

「そりゃ、色々あるさなあ、お嬢ちゃん。」

ボロボロの布の服を着て短剣を持った男が扉を開けて入ってきた。

「あ、貴方は誰?私にこんなことをして、辺境伯軍から逃げられると思っていますの?」

ニヤニヤと男は下卑た顔をしながら喋り出す。

「おー!怖いねえ!うへへ、もちろん逃げれるさ!誰にも分かるわけねえや。
そんなことより、さっきどうして?って言ってたから教えてやろうか?ええ?へへへ。」

「……教えてくださるの?ぜひ聞いてみたいですわね。」

「おほほー、じゃあこの俺が教えてやるよ!
あんたはなあ、執事長に売られたんだよ!
なんでかって?金!そして権力闘争ってやつさ!
辺境伯家の娘が大公家に嫁ぐぅ??
そんな不都合な事を見逃せるわけないね、俺はよく知らねえけど、そんな貴族サマはたくさんいるってわけ!
つまりな?俺らのバックには沢山の偉い貴族サマがいるんだぜ?捕まるわけねえだろ!ひゃひゃひゃ!」

「…………。」

「おいおいおーい、ビビっちゃって声も出ないでちゅかー??
安心しろよ〜、お嬢ちゃんはちゃーんと、どうしようもない異国の変態貴族に売りつけてやるからよ!
公国貴族の娘ってだけで、たんまりと金をくれるんだよなあ!やめられねえぜ人攫いってやつはよ!あひゃひゃ!」

 私の人生は最悪だと思っていたけれど、でももっと下があったんだ。
大公家に嫁がされるのと、異国の変態に売られる。
似たような物かもしれないが、これからの私の人生には確実に私の尊厳は無いのだろう。

 もうずっと前から分かっていた、救いなんて無いんだと。
権力闘争の道具として扱われて、結局こんな結末で人知れずに終わる。
私ってなんなの?なんで私だけがこんな目に遭うの?一握りの幸せすら望めないの?
空虚だ、私の世界はずっと前から灰色で、もう何も感じない。
例えここで、あの男の持つ短剣で刺し殺されたって構わない。こんな人生どうにでもなればいい。


「それじゃあ、もう少しして夜になったら移動するか。
おい!暴れたりしたら分かってるよな?
そこでじっとしてろ、へへへ。」

男が部屋を出ようとした時だった。
ガタンと小窓が丸ごと外れて部屋の中に落ちた。

「は?」

男は振り返って落ちた小窓を見た。
不思議そうに顔を上げた男の頭に剣鞘が叩きつけられ、男はそのまま気絶した。

「もう大丈夫ですよ、僕が助けに来ました」

小窓から部屋に飛び入り、男を一瞬で気絶させた平民の少年がそこにいた。

「どうしてここが分かったの?それにどうやってここまで登って?」

「ふふん、今日の僕は護衛ですからね!
それに、山の中と一緒です!気配を追うのは得意だし、木登り壁登りはもっと得意です!」

自慢げに話す少年は短剣を拾ってセレーネの荒縄を切った。

気配って何?この平民は何を言っているのだろうか。
セレーネにはさっぱり分からなかったが、それもどうでもよかった。
結局、今ここで助けられてもこれから先、何度でもこんな事が起こるのだろう、それに今辺境伯家に戻っても大公家に嫁がされるのは変わらない。

「さあ、他の奴らにバレないうちに逃げましょう!」

「どうやって逃げるのかしら?まさかその小窓から飛び降りるなんて言わないわよね?」

「え、そうですけど……ダメですか?」

「そんな高い所から飛び降りたら私は死んでしまうわ。」

「うーん……よし!じゃあこうしましょう!」

突然、壁を叩き斬って小窓の穴を更に広くしたラムは、躊躇なくセレーネをお姫様抱っこして飛び降りた。

「きゃあああああああああああ!!!!!」

「あはははは!!」

勢いとは裏腹に軽やかにラムとセレーネは着地した。

「ね?大丈夫だったでしょ!」

「こ、この平民が!!貴族に許可なく触れるどころか、こんな仕打ち!何を考えているんですの?!」

「わー!ごめんなさい!でもとりあえず逃げなきゃ!」

セレーネの叫び声を聞いた人攫いの集団が、4階建てだった廃墟から飛び出てきて追いかけてきていた。

ラムはそのままセレーネを抱き抱えたまま走り出す、周りは廃墟ばかり、ここは領都の外端にある更地にされる予定になっている、使われなくなった住宅街だった。

走るラムの目の前に人攫い達が回り込んできた。

「このクソガキ!逃すと思うなよ!」
「ぶっ殺しちまえ!やれ!」

人攫い達は各々が手に握る武器でラムに殴りかかってきた。

「ごめん、ちょっと待っててね」

ラムはセレーネを地面に下ろし、剣を抜いた。
そこから始まったのはまるで舞のようだった。
人攫い達は手も足も出せずに、武器を弾かれゴロゴロと地面を転がされていく。

セレーネは素直に驚いていた。
この平民の少年はちゃんとあの勇者様の弟子なのだと。

「なーんだ、これくらいなら何人来ようと大した事ないね!」

ラムは十数名の人攫い達を簡単に叩きのめした。

「く、くそ、なんだこのガキ、めちゃくちゃ強え!」

「で、でも旦那にゃ敵わねえはずだ!
旦那ァ!たのんます!やっちゃってくださいよ!」

「そうだ!俺たちには旦那がいる!」

転がされた人攫い達が、すっかり暗くなった夜の廃墟の中に向かって叫んだ。

━━━━━ガツ、ガツ、

 スパイクがついた銀のブーツが静かな夜に独特な音を鳴らしていた。
それは背の高い細身の男だ。
身につけている物はありふれた布の服に布の帽子。
ただ二つ特別な物があるとすれば、一目見ただけで特殊なものだと分かる銀のブーツと
月明かりに照らされてほのかに光を放つ、ツヴァイハンダーと呼ばれる特大剣を肩に担いでいることだった。

「全く、揃いも揃って人攫いって言うのはカスの集まりだなァ?
それに比べて少年、良い剣筋だな、そして今までに見た事は無いが、俺には分かるとも、それは良い剣術だ。」

ラムの背中を冷や汗が伝っていた。
ラムは知っている。
この特有の空気を。
ウィルや師匠も持っている、強者の威圧感を。

「ありがとう、褒めてもらえて嬉しいよ。
もしかしてお兄さんってリーメルの人かな?」

「へえ?どうして俺がリーメルの人間だと思う?」

「その特大剣ってツヴァイハンダーだよね?それを扱うのはリーメルの騎士がほとんどだって教えてもらった事があるんだよ。」

「ほほーう、正解だ。
って言っても俺は"元"リーメルの騎士ってとこだけどな?
なあ少年、俺がリーメルの騎士だって分かるなら争いはやめて、そこのお嬢様を渡してくれねえかな」

セレーネは背後からラムの横顔をちらりと伺った。
ラムの額には汗が伝っていた。
きっとこの元リーメルの騎士は強いのだろう、先程まで自信に満ちていた表情がなくなるくらいには。

「断るよ、今日の僕は………護衛だからねっ!」

 ラムが駆け出した。
剣を構えて男に迫る。
男はため息を吐いた後、力強く特大剣を横薙ぎに振るった。
ラムは剣でそれを受け流すが、彼我の武器のリーチの違いによって、男の懐に踏み込めずにいる。
男は構わず、特大剣を斬り下ろし、薙ぎ払い、ラムに斬りかかる。
ラムはなんとか受け流すが手が痺れ始めてきていた。
ついに男の特大剣がラムの剣を強く弾き、ラムは堪らず後ろに転げて距離を取った。

「はぁはぁ……強い……でも僕はどこかで戦った事がある?何か覚えがあるような……」

「どうした?何をぶつぶつとつぶやいてるんだ?
もう終わりにしないか?お前がどれだけ戦おうと無駄だ、次は死ぬぞ。」

ラムは切れた息を整えようと深呼吸を繰り返す、手のひらの感覚を確かめるように何度も剣を握りなおす。

 セレーネは諦めていた。
あの男にこの平民は勝てないんだ、きっとすぐにでも斬られて死ぬ。
そんな事はこの平民が1番分かってるはずなのに……どうして逃げないの?
命を懸ける理由なんてないでしょう?

「いいや、僕は貴方を倒せる!いくよ!!」

 ラムは再度駆け出し男に迫った。
男は特大剣を使って、地面を擦るように低い下段の横薙ぎ、続けて上段の切り下ろし、クロスするかのような中段の2連撃を放つ。

「これだッ!」

ラムはもやもやと考えるのをやめ、本能に従っていた。
何故か分かるのだ、戦った事がないはずなのに、次にどう斬り掛かってくるか分かる。
まるで戦った事があるような、それを再現しているようだった。

ラムは振るわれる特大剣を刃先に滑らすように受け流して、男の懐に2歩踏み込み、連撃を叩き込んだ。

男の顔は驚愕に染まっていたが、それでもなお、特大剣を器用に持ち直してラムの連撃を弾く。

ラムは連撃の中に遅い剣戟を混ぜた。
男はそれに反応して特大剣を後ろに下げ、体を反らした。
ラムの剣先が男の帽子を微かになぞって宙に飛ばした。
男は2歩引いて、引き伸ばされた弦のような高速の突きを放つ。
男は勝利を確信していたが、ラムはまるで突きがくると分かっていたかのように、紙一重で躱した。

「なっ、なに!?」

「はあああああ!!!」

ラムは裂帛の気合を上げて、剣を振るった。
男は即座に特大剣を手放し、銀のブーツで斬撃を受け流そうとしたが、ラムの剣を受け流し切れず、その勢いを少し弱めただけに留まる。

「まさか俺が斬られるとは!いや見事!まさに!神に迫るような見切り!
俺の渾身の突きを躱すその身のこなし!侮っていた事を認めよう、お前は強い!」

男は手放しにラムを称賛した。
男の右脇腹には深くはないが浅くもない、確かな斬られた傷があり、血が服を染め始めていた。

「は、はぁはぁ!どうだ参ったか!
逃げるなら見逃してあげるけど、どうする!?」

 その戦いを見ていたセレーネは、気づけば胸の前で両手を握って祈っていた。
どうかこの少年が勝ちますように、と。
何故かは分からない、ただ負けてほしくないと思ったのだ。セレーネの心臓が激しく鼓動していた。

「……いいや、悪いが逃げるわけにはいかないんでな。
それにこれを言うのは避けたかったが、仕方ない。
良いかよく聞けよ少年、俺は特殊な傭兵をやってるんだ、依頼を受ければ特定の人物を殺したり、人攫いのカスどもだって大金を貰えるなら守ってやったりもする。
そんな俺に依頼をしたのが誰か教えてやる。

────────その娘の父親、マーズ辺境伯だ。」

「え…?」

ラムは目を見開いて驚いていた。
セレーネに向かって振り返り、真偽を確かめようとパクパクと口を開いたり閉じたりしている。

 セレーネは辺境伯の名前が出てきても何も驚かなかった。
むしろ納得すらした。
エビス様は足腰を悪くしたりなどしていなかったのだ、父である辺境伯が最初からセレーネが誘拐されるように画策していたのだろう、そうすればこうも簡単に攫われたのも腑に落ちる。

ああなんだ、父にどんな思惑があるのか知らずとも、結局のところ私は父に売られたのだ。
もう帰る場所などなかった。

セレーネは力無く俯いた。

「そんな事だろうと思っていましたわ……。
平民、もう良いのです。
全て忘れて立ち去ってくださいな」

「な?辺境伯はドのつくクソ野郎さ。
そのお嬢様を助けて屋敷に連れ戻したって何も変わらないぜ?なんたって、あの辺境伯家に味方は誰もいないんだからなあ。
実の父親が娘を売り飛ばそうって言うんだ、お前に何ができる?
全部無駄なんだ、分かったならさっさ失せな」

しばしの沈黙が夜の廃墟に降りた。

ラムは俯きながら男とセレーネを交互に見ていたが、しばらくして決心したように顔を上げた。

「いいや、断る!
ここから立ち去ったりしないし、セレーネ様は屋敷に連れて帰る!
これからの事はこれから考える!
絶対に見捨てたりしない!」

セレーネは驚いて顔を上げた。
分からなかった、何故そこまで私のために戦うのか、諦めないのか。

「はあ?おいおい話聞いてたのか?何がお前をそうさせるんだ?」

セレーネの人生は

「僕は目の前で泣いている人がいたなら!
絶対に見捨てない!必ず助けてみせるよ!
それが僕が、僕たちが目指す最高の英雄だからだ!
アウリクスはお姫様を助けたんだよ!
それなら僕だってセレーネを、お姫様を助けるさ!」

きっと今から

「英雄なんぞに憧れてるのか?
バカなガキだ……お前はあまりにも盲目すぎる、現実を見るべきだ。」

色鮮やかに輝き出すのだろう。

「僕もウィルも、みんなが認める最高の英雄になるんだ!
そんなつまんない現実なんて見えなくてもいいんだよ!」

ラムはそう啖呵を切って男に剣を突き付け睨んだ。


 気づけばセレーネの両眼からは、ぼろぼろと涙がこぼれていた。
拭っても拭っても涙は止まらなくて、口から子供のような嗚咽が湧いて出てくる。
ずっと誰かに助けて欲しかった。
物語のようなお姫様になりたかった。
英雄は、やっと私の元にきてくれた。

「……ラム、私を助けてくれるの?」

「うん、助けるよ!!」

男は片手で傷口を抑えながら、ため息を吐いた。

「ったく、俺は一体何を見せられてるってんだよ……。
ちっ、もう好きにしたらいいさ。
俺は金よりも名誉よりも自分の命が大事でね、だから自殺志願者みたいな奴しかいないリーメルの騎士をやめたんだ。
こんなことに命を懸けられるかよ。
じゃあな、また会えたらその時は仲良くしようぜ、ラム?」

男はそう言って傷口を抑えながらふらふらと暗闇に消えた。
気づけば人攫い達もどこかに逃げたのだろう、姿が見えなかった。

「あれっ?なんか拍子抜けしちゃった。
まあ、とりあえずはこれで一件落着だよね!
ウィルと師匠が居るはずだから屋敷に戻ろう……セレーネ様?」

セレーネは座ったままだった。

「ねえラム、様はいらないわ、私のことはセレーネと呼んで?
それと、上手く足に力が入らないからまた抱き上げて運んでほしいのだけど、よろしくて?」

「え、えーと、分かったよセレーネ!」

ラムはセレーネをまたお姫様抱っこで持ち上げて屋敷に向かって駆け出した。

今はまだ、星空の輝きも、月明かりも、セレーネの目には灰色に映るのだろう。
それでも、自らを抱えて走るラムの横顔だけは、どんなものよりも色鮮やかに映っていた。

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