2章9話 この剣の征く道に終わりなんてない

騎士国家リーメルにおいて銀は特別な意味を持っている。
私の首から下がっているこの銀の首飾りには様々な意味があるのだ。
騎士とはただの戦士ではない、泥に濡れ、血を浴びることを厭わない金銭に忠実な野蛮な傭兵とは違う。
騎士が銀の装いを好むのは金に欲深い者ではないとしつつ、しかし気品を併せ持つ者であると示すためである。
そう唱えたのはリーメルにおいて最初の銀騎士と称された銀装の騎士である。
現代のリーメル騎士国家において騎士が銀の装飾を身につけることは半ば形式的になりつつも、その根底には銀装の騎士が唱えたという、騎士とはなんたるか、如何あるべきか、その問答への賛同を、己も騎士思想を同じくする者だと示すための物である事は全ての騎士が深く理解した上で銀の装飾を身につけている。
だからこそ、騎士の中でも銀騎士とは特別な存在だった。最も誉高い存在だった。

私ことイレイナはリーメル騎士国家の中央に聳え立つ騎士の塔に来ていた。
この騎士の塔の最上層には誰も触れられぬ銀剣が祀られている、今は亡き銀装の騎士の聖遺物だ。

銀騎士でもあった、小隊長であるディアモンテ隊長は悪魔に殺されて死んでしまった。
決して弱いわけではなかったが、銀騎士の中ではあまり武力に秀でた方ではなかったのだ。
しかしそれも仕方ないことの様に思う。
天下はまさに戦乱の世である。
銀騎士団の中でも指折りの実力者を新米騎士のお守りになどするはずもない。

正直に言えば小隊の中ではメイファンが頭一つ抜けて強く、魔剣を持ったオーフェンとディアモンテ隊長は互角だった。
そして……私は前回の樹海での任務で二つも三つも下の実力であまりにも力不足だと痛感した。
私はただ人よりも少し工夫ができ、器用さを持っているだけで地力が全く足りていないのだと。
どんなに意思や信念が立派であろうとも実力が伴っていなければただ虚しい独りよがりだった、任務を遂行することができなかった。

だから私は、騎士を辞めた。

ただ一人の剣士として、今一度自分の剣を一から鍛えねばならないと思ったからだった。
騎士の塔は三層によって形成された巨大な迷宮であり、中には様々な魔獣が犇いている。
一人で修行するのに都合の良い場所だった。

一階層を駆け抜けていく、すれ違う魔獣は人型の狼たちだ。
騎士になるための試験でここに訪れて、魔獣を倒した時を思い出した。
決してそんな遠い昔のことではないはずなのに、酷く昔のことのように感じた。

イレイナの剣が狼の首を刎ねた数が二十を超えた頃、二階層に向かう階段を見つけることができた。
一階層は弱い魔獣が多く、広くて見渡しの良い草原のような場所で、見習い騎士の修行のために造られた。
二階層は熟練騎士の修行のため、薄暗い霊廟のような場所で、さまよう亡霊や、より闘いに特化した武具を装備した知性の無い亜人種が彷徨っているという。
そして、最上層の三階層にはただ聖遺物だけが祀られている。

イレイナの主な目的はこの二階層で修行することだったが、どうせなら三階層に祀られている聖遺物の銀剣を一目見ようとも考えていた。

慎重に二階層の霊廟の通路を進んでいく。
吐き出した息が少し白く、地面を微かな冷気が漂っていた。
ガチャリ、と音を立てて現れたのは、ヘルメットのない中身が空洞の全身鎧だった。
目は無いはずだが、それはイレイナに気がついた様子を見せてから、その手に持っていたギラギラとした刃を地面に打ち付けて飛び掛かってきた。

油断なく地面を踏み締めて剣を振る。
イレイナの細身の長剣と全身鎧の亡霊の長剣がギャリギャリも音を立てて鍔迫り合った。
イレイナのイメージする強い剣士はラムだった、澄み渡るような剣閃が、透き通るような刃が、地の果てにまで届くのではないかと錯覚を覚えるような剣撃が今もずっと瞼の裏に焼きついて離れない。
もしかすると、イレイナは強すぎる剣術を眼にしてしまったせいで、脳を剣の狂気に焼かれてしまっているのかもしれなかった。

それでも、イレイナにとってはどうでも良かった。
むしろ自覚できたのならその狂気が心地よいとすら思うだろう。
ディアモンテ隊長は死んだ。亡くなった人間はもう帰ってはこないし、イレイナが立ち止まったとしても変わらず世界は回り続ける。
隊長が死んだ日、イレイナが目を覚ました時にはラムも魔女も居なかった。
オーフェンは隊長の死に打ちひしがれたりはしていなかった、それどころか騎士としての在り方にどこか気迫が備わったようにも見えた。
メイファンは自信無さげな臆病な少女ではなくなっていた、一人の戦士に成長していた。
魔女と何か話をしたらしくイレイナが目を覚ましたのを見届けてから、ある人を探さなくちゃいけないの、とそれだけ言い残して街を去っていった。

隊長の死と幻獣種との死闘を経て、二人は飛躍的に成長しだした。
イレイナだけ、そう私だけが止まっている、取り残されてしまった。

全身鎧が上から下に真っ二つに斬り裂かれる。
力を失った鎧がガラガラと地面に転がった。

「こんなものじゃない、こんな剣じゃダメなんだ……」

納得が行くわけがなかった。視てしまった剣術の最果ては遠く、自信があった己の剣術は児戯にすら及ばない。

己の剣を憂うイレイナめがけて、戦闘音を聞きつけた者達が集まりだしていた。
鎖帷子を着た両手斧を持つオーガが鼻息を荒くしながら走り寄り、真逆の方からも小楯と戦鎚を持ったゴブリンが駆け寄ってきていた。

イレイナにはそれらの動きがよく視えていた。
振り下された両手斧をギリギリまで引きつけてから半身仰反る事で避けてオーガの分厚い動体を鎖帷子ごと袈裟斬りに斬り裂いた。
振り返ってゴブリンを一体蹴り付けて宙で一回転し、小楯をもつ腕を斬り落とし、ギィギィと煩い口に剣を突き刺して身体を力任せに引き裂いた。
血糊を振って落として辺りを見渡せば、暗がりの向こうに幾つもの気配を感じ、これは修行が順調に進みそうだとイレイナは仄暗く微笑んだ。

無我夢中に斬って斬って斬り続け、握っている剣が自分の体の一部のように感じてきた頃だった。
本当に突然、ついさっきまで永遠に続いているような通路を歩いていたはずだったのに目の前には小さな台座があり、通路はどこにもなかった。
出入り口すらない、静寂に包まれた広間に一人佇むイレイナはここが騎士の塔の最上層、すなわち三階層なのだと少ししてから気がついた。

先ほどまで感じていた僅かな冷気もなく、闇に潜む亜人種の息遣いも彷徨っている亡霊の怨嗟も聞こえてこない。
ただ小さな台座だけがあって、しかし台座の上には何も置かれていなかった。
聞いた話が本当ならばこの台座に聖遺物である銀剣が祀られているはずなのでは、とイレイナは疑問に思って台座を調べた。

疑問はすぐに解消されることになる。

【騎士はこの場に立てず、されど騎士だけが銀剣を許される
汝、己を克服せよ】

台座に刻まれた文字を読み、イレイナは静かに剣を抜いた。
背後に立つ人の気配に気がついたからだった。
向こうも同じように静かに剣を抜いた。
お互いにタイミングを測っていたのかもしれない、気配を探り合うような間合いで先に動いたのはイレイナだった。

腰に掛けていた短剣を引き抜き、振り向くと同時にそれを投げつけて、低姿勢で斬り迫ったイレイナはしかし剣を弾かれて睨み合うような間合いに引き戻された。
完璧なタイミングだった、足捌きも、投擲した短剣の狙いも、振り抜いた剣に乗せられた力もほとんど完璧だった。

しかしその一瞬の最中で剣を弾かれるに至る誤算があった。
背後にいた人物がイレイナだったからだ。

「これは、一体どういうこと……?」

顔だけが似ているというわけではない、身につけた装備も、長年使い込んだためにできた小さな傷も、そして自分を見て驚いてるその表情も、全てが一緒だったからだ。
鏡を見ているのだと言われても疑わないほどに。

「……こっちのセリフよ」

イレイナの困惑に相手もまた困惑したように答えた。
己を克服せよ、つまりこれは試練なのだろうか?イレイナは台座に刻まれた文を思い出したが、あまりにも悪趣味が過ぎるだろうと思った。

「なるほど、これが試練だというなら受けて立つわ!悪いけど斬りづらいから、もう喋らないでよね私!」

イレイナは目の前の存在を幻影と判断して再び斬りかかった。
幻影は理解が追いついていない様子を見せつつも、イレイナの剣をしっかりと弾き返す。

数合、数十合と打ち合ってお互いの実力は完全に拮抗していることにイレイナは気づいた。
当然とも言えるだろう、これが試練ならば目の前の幻影は自分なのだ。

自分と同じ技量で自分と同じ思考で戦っている。
自分の型から外れなければ決着はつかない、しかし長年の間続けてきた自分の剣術の型を崩すような器用な事はできなかった。
相手が自分と同じならなおのこと、下手なことをすれば負けてしまうという実感があった。
それでもやらねば己を克服したとはならない。

相対する自分よりも先に剣術で上を行かねばならない。
間合いを開けてからイレイナは静かに剣を構えた。
正眼の構えではなく、水平に持ち上げた構え。
ラムの剣を模倣した一撃。澄み渡るような剣閃を。
雷鳴の如く力強く、しかし蝶のように軽い剣撃を。

相手はその構えを見て何をするつもりか気づいたのだろうが、しかし数巡迷ったような素振りを見せた。
それをイレイナは逃さなかった。
大地を力強く踏み締めて肉薄した。
この刹那だけは全身がバネになったような、背に翼が生えたようでもあった。
天空に弧を描くような剣閃は、銀の輝きを宿してイレイナの首を刎ねた。

「私は今死んだんだ」

目の前には誰もいなかった。
ただ剣を振り抜いた姿勢のままイレイナは自分が死んだことを自覚した。
否、自分を斬り殺したのだ。
手に握る剣を見れば、それは今まで自分が使ってきた剣ではなくなっていて、一切の装飾がない純銀の剣が手にあった。

静かに台座の前に立つ。
あれは本当に私だった。魔獣や亜人種の返り血に濡れた私だった。
幻影などではなく、どちらもイレイナで、そしてイレイナが死んだのだ。

イレイナが台座に銀剣を翳して目を瞑り、再び目を開けた時には騎士の塔の前、大広場に立っていた。
見上げた空には星一つ無く、月だって一欠片すら見えなかった。
暗い夜だった。

そんな暗闇の中で鈍い銀の光がちらついた。

「僕は正直なところ君が今代の銀装の正当な継承者になるとは思っていなかった。」

誰もいない月明かりもない広場の中心で、暗い赤色の無造作に伸ばされた髪を一纏めに括り、小さな蒼い外套を肩に羽織った青年、ラムが立っていた。

「私も、私も銀装の継承者になるなんて思ってなかったわ、ただの修行のつもりだった、けど……」

「銀剣は君を選んだ、君を招いて、君を試した。そして君は認められて銀剣を手に入れた。銀装になった。
僕みたいな残り滓とは違う、本物の銀装に」

ラムはそう言ってから静かに、鈍く光る銀剣を構えた。
イレイナの身体から仄かな銀光が溢れてそれは純銀の鎧になり、籠手となり、兜になった。
歴代の銀装の剣術が、経験が、知識が、その全てがイレイナに継承された瞬間だった。

「……戦わなくちゃいけないんですか?」

「これから先、銀装の継承者がいては困る、だから……死んでもらう!」

ラムにとっては、銀装になったイレイナにとっても、距離なんてものは国と国ほどまで離れていなければ、それは無に等しいものとなっていた。

光速で銀剣と銀剣がぶつかり合い、幾度となく鍔迫り合っては弾き合い斬り結んだ。

しかし剣が拮抗し合う事はない。
何故ならイレイナにはラムの剣術が見えていたからだ、ラムが銀剣を持っているからこそ、それを通じてイレイナはラムの剣術の全てを理解し、なおかつ会得してしまった。

残り滓とは違う、イレイナこそが真に銀剣の正当な担い手であり、故にラムが銀剣を握って振るった剣術はタネも仕掛けもバレている手品のようだった。
ついには、イレイナの銀剣がラムの銀剣を掻い潜って肩に小さな斬り傷をつけた。

「私は貴方のことを尊敬しているんです、だからもうやめませんか、どうして戦う必要があるんですか?
私は、わたしは独力で剣の最果てに足を踏み入れた貴方をこんな形で斬りたくない……!」

イレイナは酷く虚しかった、あれほどまでに焦がれたはずのラムの剣術が今では何の障害にも感じない事が虚しく、悲しかった。
悲壮感を滲ませるイレイナとは裏腹に、ラムは静かに笑った。

「そっか、君は僕が剣の最果てとか言うところに居ると思ってるんだね、そして銀剣を通じて剣術を会得してしまった君自身もまた剣術の最果てに至ったと?」

「……そうです、貴方が銀剣を持つ以上、私には絶対に剣術で勝つ事ができない。」

「は、はははは、そっか、これがそうなんだね、だから主神の力や銀装の力に頼っちゃいけなかったんだ、よく分かった、僕は間違ってない」

ラムは酷薄な笑みを浮かべ、そしてイレイナに心底侮蔑したような眼差しを向けた。

「何が言いたいのか分かりません!ラムさん、貴方がしたいことはなんですか、こんな戦いは無意味でしかない!」

「……ある人が弱く幼い僕に言った。主神の祝福は借り物だと。自身で勝ち取った力ではない、ただの拾い物で強くなってしまったなら、二度と克服できない弱さを抱えるのだと。
銀装の力もまた同じく、仮初の力でしかない、自分で築いた剣術を持たないから君は分からない」

この剣の征く道に終わりなんてない。僕はまだ進めるんだよ、君にここが最果てだと決める資格はない」

自分の胸から、鮮血が噴き上げていた。
星も月も見えない暗い空が視界いっぱいに映っていた。
イレイナには分からなかった、視えなかった。
気づいた時には心臓を斬られていた。
銀装を通じて、ラムの剣術が今一歩進んだのだと、斬られてからその剣術を継承し理解した。

「あ……そっか、私は、イレイナはもう死んでたんだ」

そもそもがイレイナの首を刎ねたのは自分だったのだ、道理で、

「……死にたく……な……」

騎士だった少女の最期に、ラムは霞がかかったような脳の奥で、誰かを思い出そうとした。
女性の、剣士で、とても大切な人だ、大切な、記憶だったような気がする。
そんな思考を遮るように魔女の両手が暗闇から伸びてラムの両眼を覆った。

「大丈夫、なんでもないのよラム?貴方は私の従者なんだから、私以外に何もないはずよ」

「…………そうだ、僕は…貴方の従者で、剣だ」

次第に記憶は深い霧の中にぼやけていった。

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