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西洋以上の格調を本に求めるなら

わたしはなにか、最初から書くことを考えていたから、絵本はともかく、ひたらない読書をした。
シリアスに「知」への飢えを持たないとか、そういう状態と区別は初めからあったのかも知れない。
筆者についてはそういう人間。

広範に読む時季、西洋的な多様性の幅を「意味合いかな」と思ったことは、有る。
もっと真剣なのは、ルーツ、現実、目的、洗練や捨象や省略、言葉なら短く伝えられるという所、あとは仮設空間という前提を徹底的な有効活用をしないといけないや。自分の作品を特別視したくなる人は誰しも。同様の意味を持ったものを使ったら同様の意味に、なる。それは凡庸という劣等感をしっかり超えないといけない。
精神性は、脳、神経、回路、そういった所からみもふたもなく、正しさを得た時に普遍的に伝わる。
それをいやなら、やらないし、それをやれて踏み込む価値に成る。
二者択一をせまる意図はなく選択の重要性を言っている。
思春期とかに子供なむなしさをしっかり自覚すると、取捨選択の必要性はハッキリ覚えると想う。
つくらないと、必要な道具はわからない。つくってもらうという事は、そういうシリアスさをもっている。
観察的理解に留まるという判断を知らない内にしている。
やる事と、みることを、きりはなしてしまってる。
「やる時はみた事を忘れ」「みる時は、やった事を忘れる」職人は流石に素人より偉いな…。
漢籍に夢中になったりした時期はあったっけー。今はその熱はない。
ネセシティと言えるかな。必要なラインをふまえる。そこから語彙はあとにくる。
叙述と抒情は、歴史の2側面をなしている。
そういう観点も在る。
観点を絞ったなら、その深さをやりきるといい。
格調なら格調。
描写なら描写。
採点基準を相手に預けない方法というのは、自分なりにひとつやり切った時に、そこの分野は全体的に、分かってるから、独創的にやっても、破綻しない様になる。
井伏鱒二、椎名麟三、徳田秋声、長塚節、北村透谷、梶井基次郎、こういうのを。
こういうのを「書ける」と、最善。格調は理解出来ている。尾崎士郎、伊集院静、山本周五郎(梅崎春生)と成ってくると、現代語にはなってくると思うから比較的最近の文学史、ということに、成って来る。ちなみに歴史も1観点をふかくは知っているとよい。描写というのは状況を包括的に見られる状態の時にそれを表現した物をいうし、浅いと一部を正確に、かく状態はスタートは、させらんない。
実はそこを超克出来た時に作者の気持ちを分かっていると言う。

相互援助そのものは、大切と、思います。有償のことをする余裕を持って、無償の活動を敢えてする系のスタイルを、とってます。 プライスレスに、人生を再始動したい人には情報を提供出来るかなとおもいます。OK??? 企画倒れは充分警戒したいし、格闘技なら階級低め、組織ならNPOは、穴場。