2024 6/19 性差みストリート

性差についてあまり語りたくない。差別への忌避感からだけでなく、人間という種への信頼があるので、そこらへんをむやみに区別して扱いたくない。
人間のつくりは複雑で洗練されている。キャラエディットで性器の形をどういじくったかくらいのことで、地図が読めたり読めなかったりするなんてことあるのだろうかと思う。なんなら全部一緒だろとすら思っている。

しかし、性別による違いは厳然として存在する。身体面から社会におけるあり方まで、様々な事情を含みながら。
上記のツイートでも遠回しに触れたが、私を含め男性の身体で生まれた個体は月経や妊娠を経験することができない。「可愛くあれ」という社会的な圧力を感じることも女性に比べると少ない。
このツイートはそういうものを知らないなりに思慮をめぐらす誠実さや、拭いきれないしったかぶり感になんとなく良さがあるよねという趣旨のものだった。

とはいえ、それらを自分事として知っている作家が書く少女期の迫力は凄まじい。江國香織の「じゃこじゃこのビスケット」や宮木あや子の「雨の塔」、あの頃味わった不快感と甘い幸福。全てを許されていながら、同時に“ままならなさ”に貫かれているような。曲で言うと、児玉雨子が作詞した「プラスチック・アンブレラ」も良い。シャニマスに登場するアイドル、三峰結華のキャラクターソングではあるが、あの曲から感じ取れるのは三峰結華という存在を透光した少女たちの憂鬱だ。

少女に限らず、女性性というものは物語のテーマによく使われがちだ。「母の愛」とか「女同士のドロドロ」とか、様々な形の女性性が古今東西描かれてきた。
しかしその割には、人々は女性性を恐れている。必要以上に遠ざけたり、なんらかの神秘的な力を有すると信じたり。
家父長制への批判によって、家庭内から強権的な父性は排除されつつある。言い換えれば、“父性”とは後天的に付与された社会的役割だとされた。しかし、それに対置される存在である“母性”は、神聖不可侵のなかば本能的なものであるとされている。ここにある種の非対称が存在する。

冒頭でも述べたとおり私はユニセックス論者だ。男らしさ、女らしさといった幻想が物語の中で駆動しているのを見るのは好きだが、それが原因で現実が気持ち悪いことになるなら全部を真っ平らにして良いと思っている。ただでさえ私たちは無数の断絶を抱えて生きていかなければならないのだ。なんとなくで規定された不文律に無理に従って、それを増やす必要はない。

このまま社会における人間の多性化あるいは無性化が進んでいった時、文化はどう変わるのだろう。もしかしたら100年後には我々の知らない少女期があって、知らない鬱屈が共感されていたりするのかもしれない。そう考えるとすごくワクワクする。

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