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【短篇小説#1】悪魔の食べ物

あなたはすでに遭遇していますか?

その日のわたしは経験したことがないほどの空腹感に捕らえられ、それでも食べることは許されず固い椅子に座って待つしかありませんでした。ふだん偉そうにしていてもこの程度の絶食で大騒ぎするなんてと自嘲できたのは最初のうちだけです。エネルギーの補充が絶たれたうえに季節の変わり目で空調が微妙なせいか、寒気までしてきました。それでもみんなと同じ服を着て、番号が呼ばれるのを待つだけの存在であり続けるしかなかったのです。だからといって誤解しないでください。拉致も監禁もされていませんし断食道場にいるのでもありません。ただの健診です。これって必要なのはわかっていても結構めんどくさいですよね。朝食抜いたり、問診票を何枚も書いたりとか。でも、手術歴5回の身の上としてはスルーはできません。治療はけっこうつらいものですから……。時間はのろのろと進み、猛烈な空腹感と増してくる寒気に限界を感じ始めた頃、ようやく健診の終わりがおとずれました。

施設内のコンビニで食べ物を仕入れて外に出ました。ほどよい陽射しを浴びて身体にぬくもりが戻ってくると心地よさでいっぱいになりました。澄んだ青空が広がっていてコスモスの花が風で揺れる姿がきれいすぎて食べるのも忘れそうでした。空を見上げることまでできてしまう自分も意外でした。この調子ならもうちょっとは大丈夫かもしれない、もう少しがんばれるかもしれないと思っているわたしがいました。

クルマに乗り込み、レジ袋からお宝を取り出しました。いよいよ食べれるのです。まずは温めてもらった鶏白湯らーめん。栄養成分を見ると、タンパク質22.7g、糖質14.6gでカロリーは249kcalとなっており、小腹が空いているときにピッタリのヘルシーちょい麺です。しかし、今のわたしは17時間絶食の瀕死の状態だったはず。まぁいいでしょう。とにかく食べることにします。ちょい麺のラップを震える手で剥がしました。手が震えたというのは少し大げさかもしれませんが、見ている人がいたとしたら一刻も早く食べたいという焦りは伝わったに違いありません。それにしても鶏白湯は美味しすぎます。スープの塩気も最高で、全身の細胞のひとつひとつから歓喜の声が聞こえてくるように思いました。そのときです。視線を感じて前方を見ると、さっきは誰もいなかったところに男性2人が駐車場のフェンスにもたれてこちらを見ているように見えたのです。えっ?いつから見られてた? 人が無心で食べている姿を無断で見るとはひどいじゃないですか!という八つ当たりに近い憤りが恥ずかしさを上回ったし、なんといってもわたしはまだまだおなかが空いていたので食べるのを中断できませんでした。そして、彼らはきっとここの職員で、健診が終わって夢中で食べている人間を日々見飽きているに違いないと都合のいい解釈をしたのでした。飢餓状態で食物にありついているときは消化器だけが機能していて、想像以上に無防備だと思い知らされました。

鶏白湯らーめんはすぐに食べ終わります。至福の時間はあっという間です。なんといってもちょい麺だし。本当はここでご馳走様をするべきでした。でも、あらがえません。買ってしまったものをあきらめるなんてできるわけがないのです。なんといっても17時間の断食明けですから。このうつくしいチュロスはわたしに食べられるためにここにきたのです。チュロスにかぶりつく以外の選択肢はありません。コンビニでチュロスをみつけた瞬間、運命は決まったのです。おそらく10年ぶりくらいに食べるチュロスを口に入れます。何なのでしょう、この快感は! 油で揚げて、これでもかとハチミツや砂糖をまとわせた超甘い揚げ物。これだったのです、わたしが食べたいものは。全身の細胞が歓喜の雄たけびをあげている。細胞が狂喜乱舞しているのです。

わたしは周囲を見回すこともせず、一心不乱にチュロスを食べ続けました。チュロスを食べ続けるマシンのようにです。もしチュロスが100本あれば全部食べてたかもしれません。いつもはタンパク質と糖質を気にしてばかりなのに。チュロスはそのささやかな努力を一瞬にしてぶち壊すジャンクすぎるフードだというのに。チュロスは分別を奪ってしまう魔の食べ物だったのです。もう手遅れですけどね。

その後のわたしがどんなふうだったか、知りたくないですか? 知りたくないとしてもどうしても聞いていただきたいのです。チュロスを食べ終わると、上司に体調悪いので午後は休みますのメールをしました。それからコンビニやスーパーをハシゴし……もうお分かりですよね。そうです。チュロスを買いあさったことバレてますよね? テーブルには山積みになったチュロスがあります。会社をさぼってチュロスを食べまくる午後が本当にやってくるなんて! せっかく高たんぱく、低糖質の生活を続けてきたのに、もうそんなことどうでもよくなってしまったのです。魔が差したってやつでしょうか。さっきの甘美すぎる味に魅入られてしまったわたしにあらがう力は残っていません。チュロスをほおばりながら飲み物を用意しました。一番合いそうな珈琲を淹れます。たっぷりつくっておかなくては。なんといってもチュロスは山積みなのですから。それからスパークリングワインも開けちゃいます。チュロスとの相性は未知数ですが、ずっと飲みたかったワインなのです。実をいうとチュロスの大量摂取に驚いた身体がどのような反応をするかが少し不安です。冗談ではなく死ぬかもしれないのです。チュロスの食べ過ぎで死ぬ? それはドーナツなのでは? いや都市伝説ですから。
断っておきますけれど、わたしは人生に絶望したわけではないです。絶望どころかうまくやっているほうだと思ってますよ。サボることなく働いているし(きょうはズル休みしましたけど)、規則正しく生活できています。栄養バランスを考えた食事をしているし、運動だって週3回はジムに通ってます。貯金も確実に増えています。旅行だって年に3回は行っています。休日は美術館、観劇、サークル活動等々。どうです? 充実した生活、理想の人生とはいえないまでも、そこまで悪くないですよね。ただ、たったひとつですけど叶わないことはあります。トキメキがないのです。でもトキメキなんてなくても生きていくのに何の支障もありません。だから絶望はしていないんですよ。

チュロスを食べながらですけど、ネットでチュロスを注文しています。指がとまらないのです。食べるチュロスがなくなるのが不安なのです。明日はこの部屋がチュロスで埋め尽くされるかもしれないと想像すると急にドキドキしてきました! チュロスの部屋で、ずっとずっとチュロスを食べ続けるわたしがいて……ついさっきまで想像すらできなかった光景です! これって、もしかするとトキメキですか? 恋焦がれていたトキメキが訪れようとしているのですか?

たとえチュロスで埋め尽くされた部屋で息絶えたとしても、とてつもなく美味しいものに出会ってしまっただけなのです。それが悪魔の食べ物だったとしても受け入れるしかない、そんなものですよね? 

恋焦がれさせ歓喜に酔いしれさせ、そして確実に後悔させてくれる……悪魔の食べ物ってアレに似ていると思いませんか。


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