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【短篇小説#4 】ヨシキの事情(前篇)

朝の8時半が近づくと耳を澄ます癖がついてしまった。母親が出勤するのを待ちわびている。ボクは2度目の失業中でそのことについて何も言われたりはしないのだけど、ほんとはあれもこれも言いたそうな母親の顔を見るのを避けているうちにこうなった。そんなボクの耳はネコの次くらいには聴覚が発達してしまったというのはウソだが、母親が音を立てまいと細心の注意をはらって閉めたはずのドアの音を聞き逃すことはない。やっとひとりになれたボクはスキップでリビングに向かう。ニュースでは今年最大級の寒波への警戒を呼びかけていたが、母親はボクの行動をお見通しなのか暖房を強めに効かせたリビングの心地よさが情けなさを煽ってくる。
そのときだ。「おはよう」と声をかけられて驚きのあまりソファから腰を浮かせた。出かけたはずの母親が立っている。
「どうしたの? 行ったんじゃなかったの? 忘れ物?」
「なによ、幽霊でも見たみたいに驚かないでよ。あのね、ここを売ることにしたの。早く引っ越し先を見つけてね」
「ちょっと待ってよ。無職なんだよ」
「あたしのせいじゃないよね。もう決まったことなの。というか、やっぱりあなたとは冷静に話せないわ。そういうわけで代理人を頼みました。ミイケさんって人で必要事項はこれに書いてあるから」
一方的に告げると返事も待たずに行ってしまった。いったい何が起きている? 就労・就学せず、職業訓練も受けなくてよいという最高の環境を手に入れたばかりだというのに冗談みたいにあっけなく粉砕されたというわけだ。暖房が効いているだけで喜んでいたのが遠い日のように思えた。父親の記憶はないけれど母親とふたりで楽しく暮らしてきたのに。


まだ保育園に通っていたときの会話を思い出す。
「ねぇ、ボクのパパってどこにいるの?」
いつもならすぐに答えてくれるママなのに何度もまばたきをするだけで黙りこんでしまった。どうやらよくないことを聞いたらしい。しばらくしてママは言った。
「パパのことはね、まだヨッちゃんは小さいからもっともっと大きくなってひとりでも生きていけるようになったら教えてあげる。ほら指切りげんまん」
今思えばうまく言いくるめられたというだけの話かもしれないけど、当時のボクは早く大人にならなくてはと本気で決意したのだった。
果たして母はあの日の指切りげんまんを覚えているのだろうか。


考えてみたら最近母親とはほとんど話をしていない。ここ半年ほどボクはコンビニ弁当をつくる工場で夜勤のアルバイトをしていたので同じ家で暮らしていてもすれ違いにはなる。ひとりの食事は味気ないと思ったのは最初だけで思ったより心地よいことに気づいたみたいなことを他人に言えばバカなのかと思われることくらいは想像がつくので誰にも言わないけれどボクは26歳でとっくに成人しているわけだし親元に居なくてもよい年齢ではあったのだ。それなのにいまだに実家なのは母親との暮らしが心地よく何ひとつ困らないからだ。最適化された環境を放棄してまで変化を求める必要はどこにもないというのがボクの言い分だ。居心地がいいところから動こうとしないのは生存戦略から考えてもまっとうではないか。でも母親があの指切りげんまんを覚えているとしたらどうだろう。その時期がきたということなのか。確かに今の生活は悪くはないけれど出自の情報不足、つまりはボクの父親はだれでいったい何者なのかという問いは宙ぶらりんのままだ。だが、今さら隠されてきた父親のことを知ったとして何が変わるのだろう。どうせロクデモナイおとこに決まっている。そんなやつのことを知らされて混乱したくない、動揺するのは嫌なのだ。と思っている時点で臆病になっている。自分が弱っちいのは自覚しているし世の中には知らないほうが幸せなことだってあることはさすがにわかってきている。そうであるのに知らないでいることには耐えられそうにない。必要なピースが埋まらないもどかしさに付きまとわれている。知るのが怖いのに知らない状態が気になってしまう。こうして堂々巡りの沼にハマっているというわけだ。


押し付けられたメモを見ると代理人とやらは明日10時に来ることになっている。それにしてもさっきの母親は別人みたいだった。どこか遠くから話しているような捉えようのない見知らぬ女のようだった。マンションを売る理由くらい教えてくれてもよさそうなのに取り付く島もないとはこういうことなのか。人生のステージが大きく変わろうとしていた。ボクは思わず大きなため息をついたが途方にくれているのではなかった。全然勉強せずに登校するとアサイチで数学のテストですと言われたときの不戦敗に似ているような、対戦を告げられていなかったのにいきなり負けを宣告されたような気分とでもいえばいいのか。どちらにしても代理人と会う会わないの選択権は与えられていない。代理人と会って自分が置かれた状況を確認し、引っ越し先を見つけて転居する作業をするしかなさそうだと他人事のようには理解した。ただ代理人のペースで事を進められてしまうのは芸がなさすぎる。どうやらボクは非力なりに戦いを挑む気になってきたらしい。実に滑稽だ。どこにも敵はいないのだ。いや本当はわかっている。自分のことなのに他人事みたいにしか関わろうとしないボクという人間の致命的欠陥を自覚し始めていた。気がつくとフジキにメールしている。彼は保育園の頃からの幼なじみで気の置けない関係なのだ。


フジキが指定したトンカツ屋は高速を使えば50分ほどだが敢えて一般道を走ることにした。待ち合わせまで3時間以上あったし高速ではアクセルを踏みすぎるかもしれないからだ。楽園追放を宣告されたショックで注意力が散漫になっていることの自覚はあったらしい。久しぶりの一般道はガソリンスタンドの敷地内にコンビニができていたりドライブスルーの弁当屋やカフェ付きの多機能コインランドリーなどがオープンしていた。一番驚いたのは小規模だがショッピングモールの出現でボクが停滞を決め込んでいたあいだも世の中は新しい何かを求めて動いていたのだ。時間をつぶそうと立ち寄ったモールのカフェでソイラテを飲みながら通路をぼんやり見ていた。腕を組んでお互いの顔しか見てないカップルとか何も持たず修行僧のようにひたすら歩いている高齢の男性とか、熱心におしゃべりしている熟女たちのグループとか……いつもは他人を視界に入れないように注意しているのにどうしたのだろう。気が付くと1時間以上も人々を眺めていた。はしゃいでいる顔、不機嫌な顔、疲れた顔が通り過ぎていく。彼らが抱えている事情は一切わからないけれど何とか生き延びようと動きまわっていることは疑いようがないと思えてきた。根拠を問われても何も答えられないけれど、いろんな感情を身体全体で表現しながら歩く人たちを見ているうちに連帯意識ではないけれどひとりではないような気がしてきた。これからだってただ流されていくだけかもしれないけれど、流されつつも最善を尽くそうという気持ちが芽生えてきたのだ。何となく優等生っぽくて気に入らないけれど、受けて立つという心境が錯覚でないことを祈りながらボクは上から引っ張られているようにして立ち上がると別人のように大股で駐車場に向かっていた。クルマに乗ってから目的地まで沿線に咲く花を眺めたり信号待ちでは隣りの車線の人をそっと観察したりしておもしろがれたのは意外だった。知らない自分を見つけたようで少しだけワクワクした。

目的地に着くとフジキは先に座っていてお冷のお代わりをしている。よほどの空腹らしい。人のことは言えないけれど成長しないやつだと改めて思い、それだけで全身の筋肉が緩む。
「久しぶりだな」と声をかけると彼の顔が一瞬輝いたのを見逃さなかった。昼飯にありつける喜びを隠しきれない口調で話しかけてくる。
「何かあったか? おまえから連絡してくるなんてめったにないからさ」
「実は家から追い出されることになった」 
「まさか! マザコン坊や最大の危機ってわけか!」
「あのさ、ずっと言っているけどマザコンじゃないから」
「ママと一緒に暮らしているのに?」
「利便性だよ、利便性。ご飯作ってもらえて洗濯もしてもらえてさすがにもうアイロンはかけてくれないけどね、光熱費も払ってくれるんだよ。わかるだろ」
「はいはい。パラサイトでしたね、わかりましたぁ。じゃあ聞くけど、なんで追い出されるわけ?」
「売るんだって。突然で何が何だかわからないよ」
「だからさ、なんで売るのか聞いてないの?」
「聞こうとしたよ。そしたらさ、ボクじゃ話にならないから代理人と話せだと。無茶苦茶だろ?」
「わかりやすいよ。老いを自覚した親がさ、一人前になってるはずの子どもに巣立ちしろよって言ってるだけの話だろうが」
「無職の子どもにか」
「おまえさ、自分の歳わかってるか」
「説教聞きたくて来たんじゃないよ。しばらくさ、おまえのところに行こうかなと思って」
フジキは口いっぱいに詰めこんだロースかつをいっとき咀嚼していたけど意を決した表情で口を開いた。
「ワルイけどオレんちだめだわ。先客いるんだわ」
「えっ! 聞いてない」
「だから今言ったよ。言う機会なかったよな」
フジキのところに転がり込めば楽勝と決め込んでいた自分の安易というかテキトーな思考に呆れ果てて食事という行為を放棄しそうになったけど、久しぶりに食べるロースかつ定食から離れることはできなかった。当てが外れた以上、ここはしっかりエネルギーを補充して次の作戦を練るしかない。
ボクの目が泳いでいるのに気づいたフジキが畳み込んでくる。
「何うろたえてんだよ。普通に物件探して引っ越すだけの話だろ」
「無職なんだよ。部屋借りれないよ」
「おいおい、仕事見つければ済む話だろうが」
「一度にあれもこれも無理だよ」
「おまえ本当に情けないな。おふくろさんに匙投げられるのも仕方ないですわ。その代理人とやらに正直に話して交渉しなよ。引っ越し代と当座の生活費を出してもらうとかさ」
フジキはご飯大盛と千切りキャベツをお替りして厚切りロースかつをいとおしそうに完食すると急に真顔になった。
「たいしたことじゃないだろ?」そっけない口調だけど、おまえならできるだろ? 思いきってやれよと言われた気がした。

【短篇小説#4】ヨシキの事情(後篇)に続く


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