2022年の時の誕生日の総括
誕生日になった。
さて、一年が経ったからいろいろ振り返ってみよう。
そして振り返ってみたらかなりの長文になった。
一年間、本当にいろいろあった。
無茶な計画を立てて実行しようとして、無茶っぷりな所だけが残った感がある。
去年の誕生日の頃は割と覚えている。
誕生日のときの一瞬一瞬がものすごくうれしかった。
なので誕生日が12/26まであるかのように、馴染みのあるバーで飲んだり遊び倒した。
そのあと、そろそろ切り替えないといかん、と思ってロングスパンの計画を作ったり、弾けるようになりたいピアノの曲の練習をしてた。
そこにお正月の初詣の誘いが来て、年明けの深夜からデートでリア充して、昼夜逆転し、再びゴロゴロとしたニート状態に陥った。
以前から言ってる通り、ぼくは物販の事業を立ち上げて成功することを目指している。
そして、たくさん売るには良い商品写真を撮ることが必要であり、そのためには部屋を片付けて撮影の環境を整えないといけない。
「お部屋を掃除して整理整頓せねば」
けれどめんどくさい。
この辺りで精神力の弱い僕は出鼻をくじかれた。
当時はベッドがなく収容スペースが足りなくて、しかも不要なコタツが邪魔で、とてもカメラのセッティングどころじゃなかった。
別の悩み事もあった。
カメラを買わないといけないが、どれ買えばいいかわからないし、高い。
そのときはフォトマスター検定2級優秀個人賞というのをもらい、座学でカメラの知識を蓄えていた。
しかしネットで購入したいカメラの価格を調べて知るといった、”買い物スキル"がなかった。
フォトマスター検定のテキストで勉強してたときは「ふむふむ。撮像素子は35㎜フルサイズが良いんだな。一眼レフよりミラーレスが良さそうだ。マクロレンズも買おう。」とか思ってた。
しかし、フルサイズの新品ミラーレスカメラは高すぎて、価格がふざけてる、と思った。
その当時ネットで調べて得た知識の範囲では、マクロレンズは価格がカメラ本体より高かった。
「こんな問題は全く想定できなかった。どうすればいいんだ。」
となり悩み、2022年の始まりからメンタルをやられかけた。
しかし、ある無茶苦茶な計画を立てることにより、メンタルを取り戻した。
「『ルートビアーラグ』という難易度の高いピアノの曲の練習だけに集中しよう」
ぼくの人生の宿題の中には様々なものがあり、例えばボクシングだ。
他にもピアノの曲もあり、そのひとつがその曲なのだ。
後々に、フォレストガンプのテーマ曲も弾けるようになりたいが。
物販ビジネスで成功したいが、お部屋がぐちゃぐちゃでやる気をそがれる。
「そんなときはまず先に、ピアノの曲を完成させてしまえ」
これが**才(一年前)になった僕の、最初の半期の計画だった。
メンタルの調子は一気に取り戻した。
しかし今度は、ピアノの曲が難しい、という現実を叩きつけられた。
毎日ぶっ通しで練習すれば4月には弾けるだろう、と思っていたが、結果的に6月を過ぎても弾けなかった。
ピアノは楽しくて最高だ。
しかし、ずーっとピアノの練習をしてると、局所疲労がたまる。
それを無理やり続けてたらきつくって、気が狂いそうになった。
いつしかピアノの練習時間は一日3~4時間くらいに減っていった。
その割には、それ以外の時間、ゴロゴロして過ごしてた感がある。
練習効率は、今振り返ってみれば悪かった。
当時最初は、おそくても5月か6月に『ルートビアーラグ』を完成できるだろう、そして気分すっきりして、それからビジネスに本気で取り組もう、と考えていた。
しかしその計画が6月が終わると崩壊した。
まあでも、楽しいこともあった。
東京フレンドの一人からカメラを安く譲って頂いた。
NikonのD5600だ。
撮像素子がAPS-Cの一眼レフカメラだ。
APS-Cとは、フルサイズより少しセンサーサイズが小さいのだが、良い写真はとれる。
ぼくはカメラに関しては、古くて安いスマホのやつしか使ってなかった。
なので一眼レフで撮ってみたらびっくりした。
写真の細部までちゃんと表現されている。
春ごろからカメラを持ち歩いていろんなものを撮るのにハマった。
年金受給者のニート生活だから出来た、と言えるだろう。
やっていくうちにカメラのスキルもちょこちょこと身につけつつ、役に立つレンズの価格帯とかも知るようになり、機材はそこそこ充実するようになった。
『ルートビアーラグ』が未完成なまま7月くらいになった。
それでも
「弾けるようになるまでずっと練習を続ければいいんじゃない?」
と考え、思考停止状態となった。
ピアノ以外にやるべきことから逃避していた。
精神的に気力的に相当しんどい時間が多いから、本当に逃避できてしまうのだ。
むしろ逃避から避けられない、みたいな感がある。
難易度の高いピアノの曲は、最後の最後、詰めるところがとても大変だ。
最後にとても苦労するのだ。
こうしてお金の面の危機感から逃避しつつ、時間が溶けていった。
ピアノの練習だけをしてたわけではなく、それ以外でも時間はたくさんあった。
が、いまいち生産的な行動をとれなかった。
とらなかった。
自分でも不思議だった。
まるで魔術にかかった感覚。
無理して無理やり動こうとすると、苦しくて動かなくなる。
苦しい、というより、怖い。
こんなんでは先が思いやられるが、いつから僕はこんな風になったんだ、と思った。
何度も何度もこれをぼんやり考えてるんだけど。
ただ、ここ1~2年くらい、自分のメンタルの弱さが分かってきた気がする。
ある種のPTSDみたいなものなんだろう。
つらいのが怖いのだ。
本能がつらい近未来を察知して避けようとしてるんだろう。
さらにもっと考えてみた。
いつから、どのようにして、こんな風になったんだろう?
大学に入るまではそこそこ順調だったから、その辺から過去の自分を思い出した。
大学受験は京大を目指して一年浪人して合格した。
一年浪人した時は、京都で下宿してた。
予備校の、ボロボロの古い、木造の寮に住んでいたのだ。
高校生のときは、岡山の実家にいた。
その実家は地獄だった。
実家の構成家族は、僕と兄と母と、母方の祖父と祖母の5人だ。
離婚したため父親はいなかった。
母は自分の父親からひどい性的な虐待を受けたようで、父親の足音が近づいただけで悲鳴をあげる。
明らかなPTSDだ。
母は自分の母親からも憎まれている。
ヒステリーを始めとするトラウマ症状で、家庭をぶち壊しにされたからだ。
なので祖父祖母から憎まれ虐待や暴行を受けていた。
家庭不和の騒音を聞くと、僕は精神が病まずにいられなかった。
悲鳴が本当に半端ないのだ。
本気で大声を上げるから、めちゃくちゃうるさい。
受験勉強?参考書の文字を読む?
それどころではなかった。
僕はひたすら頭を抱えて、気が狂いそうな自分を抑えることだけで精いっぱいだった。
もちろん現役の時に大学受験しても落ちた。
その後、母や離婚した父がいろいろ手配してくれて、ぼくは京都で下宿して一年間、受験勉強に専念できるようになった。
その環境が本当に、どこまでもありがたかった。
勉強が楽しかった。
京大理学部に合格するのなんて楽勝なのが目に見えて、予備校の授業が終われば親しい講師に自分の夢を語るのが日課だった。
そこまで楽勝ではなかったが、一浪して京大理学部に合格した。
「さあ春から京大生だ。夢をかなえるぞ。がんばるぞ。」
ところが今度は、母親が限界にきていた。
僕が京都で下宿して一年間受験浪人してる間に、母親が実家で虐待と暴力を受けていたようだ。
僕が受験勉強に専念してるうちは耐えてくれていたようだが、受験に合格したあたりから限界がきた感じだ。
僕が住んでいる住所に押しかけたり、お世話になっている教授につきまとったり、やばいストーカーに母はなりだした。
母はいつも「息子が心配なんです」、「勉強できるんでしょうか?」、「就職できるんでしょうか?」みたいなことを僕の周辺のあちこちで言っていた。
けど、そうやって僕が母からの連絡から逃げれないようにしたあとは、僕にただひたすら、携帯電話越しに悲鳴を僕に聞かせるだけなのだ。
これをされると、僕は病まずにいられない。
だから僕は連絡を避ける。
しかしそうすると、再びストーカー行為を始めてくる。
根幹的な理由は、母の父親と母親からうける虐待と暴力だろう。
僕が高校生のときは、実家で暮らしていて、何度か祖父からの暴行から力づくで母を守ったことがあるのだ。
そして僕が浪人の時に実家から離れると、その反動で祖父と祖母からの虐待がエスカレートしたみたいだ。
いろんな一連の出来事のせいで、母は僕に精神的に依存し、異常なくらい精神的におかしくなったようだ。
僕は京大に入ると同時に吉田寮に入ったが、みんな大なり小なり、受験勉強を終えての燃え尽き症候群になってるな、と思った。
吉田寮生だけではなかった。
クラスの学生を見ても明らかにそうだった。
だから大学1年目の最初の半年のカリキュラムは、ゆるゆるに易しく設定してあるのだろう。
人生はしんどいのだ。
受験勉強が終わろうと、しんどいのは続くのだ。
僕には、ちょっと燃え尽きたところに、退屈な授業を受けるのはきつかった。
そういう疲れ切ったとき、やすらぎたいのだ。
だから、みんな時々やすらいでいる。
家族や友人と連絡をとったり、サークル活動にはげんだり。
僕だってしんどくて、休んで回復したかった。
しかし「やすらぎたい」という時に、狂った大声で悲鳴を上げまくる母が付きまとってくる。
こうなると苦痛すぎて学業どころではない。
けれど、僕はある程度単位をとらないと、授業料免除がもらえなくなる。
なので拾える単位を拾うだけの活動をし、ほとんど何の学びもないまま4年間でカリキュラムのノルマをやり終えた。
僕は5回生になったが、その5年目の1年間は休学していた。
それまで4年間吉田寮に住んだが、そこには母が付きまとってきた。
なので吉田寮を出てアパート暮らしを始めた。
勉強をやり直せる。
心機一転して、若かったせいもあるのか、やる気が沸き上がり勉強をがんばった。
目標は「京大理学部の院に入って研究者になること」だった。
物理の勉強をやり直した。
4回生まで、単位をとるために試験前に公式を覚えてばっかりで、セオリーの土台は不勉強だったのだ。
その当時の物理の勉強は、初級者向けの程度のものであるが、本当におもしろかった。
ただ夏にある院試はかなり難しく、勉強していても多分間に合わないな、と悟っていた。
マイナーな実験系の研究室に入れる程度の点はとれそうだが、第一志望の理論系の研究室はまずきびしい。
そうなると「院試合格は6回生のときか」と思い、ため息が出たが、物理の勉強をマイペースで楽しんだ。
幸せだった。
数学や物理っておもしろい。
しかし7月頃に母親がまたアパートの方にまで押しかけるようになった。
吉田寮に住んでいた時と同じ状況になった。
僕はこのとき「ああ、これはもう絶望だな」と思った。
狂った大声を聞かされて精神が削られる日々がまたきた。
もう何もかも無理だ、と思った。
完全に無気力になり、勉強の手はとまった。
発狂した母の大音量の奇声に耐えるだけの時間がつづくだけになった。
僕は京都で何も出来なくなった。
母から岡山の実家に帰るよう圧力をかけられていたので、抗う気力もなく、そのまま実家に帰った。
6年ぶりに帰った実家は、相変わらず地獄だった。
兄はいなかった。母、祖父、祖母の、3匹の怪物がうごめいていた。
精神的な苦痛は度が過ぎると、めまいがしたり、気分が激しく上下したり、精神的に調子が悪いときの記憶が残らなかったりする。
断片的な記憶はある。
しかし「今日この日は〇〇する予定で~~で一日を過ごすんだ」みたいな、きちんとした日にちレベルの記憶は残っていない。
「気が狂いそう」ではなく、既にもう気が狂ってる状態の日々だった。
夢を失いどうでもよくなった自分に、負の衝動が何度も押し寄せて来た。
だが犯罪者とかにならなくて済んだのは、本当に奇跡的な幸運に感じる。
自殺しなければ良い、てものではない。
犯罪に走るようにならなかった自分を今は褒めている。
この頃からかもしれない。
つらいと怖くなる
又はしんどいのが一定以上続くと、怖くなる。
京大に入って以降、しんどくてつらくて「休んで安らぎを得たい」というときに、安らぎでなく追い打ちの辛さを、嫌というほど経験した。
今となってもトラウマ症状っぽいのがあって、困っている。
つらさが一定以上続きそうになると、とても怖くなる。
こういう過去の経験を頭では忘れようとしても、体に恐怖が染みついている感がある。
なんとかしないと。
自分に「地獄はもう終わった。祖父も祖母も死んだ。普通に生きれる。」といつも言い聞かせてるんだけど、簡単に問題が解決されない。
簡単ではない。
いろいろ工夫したり、あれこれ模索したりしている。
例えば、一人ではなく誰かと一緒にいると、トラウマ症状っぽいのが来なくなる。
だから人と一緒にいるのって、すごくいい。
あと体を動かしていると、まあまあマシになる。
ちなみにいろんなカウンセラーをめぐってこの悩みを相談したんだけど、現場で場数を踏んでいるベテランの臨床心理士も、どうすればいいかわからなかった。
本当に困った。
ただ、以前よりはマシになっている。
2年くらい前の頃は、自分の状態をまるで把握できてなくて「この躁鬱の症状、なんなの?これさえ無くなれば良いの?」みたいな理解しかなかった。
2年前かそれ以上前の頃は、「自分を強くせねば」という思いでいっぱいだった。
躁鬱とかも強さがあれば解決できる、と思っていた。
強くなることで人生の目標を達成でき、困難を克服できるのだと信じていた。
そして自分の成功体験に着目して、自分の可能性に希望を持ち、自分を大きく大きく描いていた。
ところが、1~2年くらい前のころ、なんだか違和感を感じるな、と思った。
自分の本心にふと気付いた。
「やすらぎがほしい」
ひたすら休みたいのだ。
けれど、いくらゴロゴロ寝ても、活動を再開してちょっとしんどくなると、また同じ状態になってしまう。
つらいのが怖い、てことなのだろう。
とても不便だ。
死んだら楽だろうな。まじで。
死にたくはないが、死んだら楽だと思う。
でも僕を構成しているのは「休みたい」だけでなく「輝きたい」みたいな所もある。
だからがんばりたい。
鬱のフェーズでない限りがんばりたい。
僕は中高のころ、格闘技をガチでやってて、それなりに活躍出来て充実していた頃がある。
格闘技をガチでやると、脳内麻薬が半端ない。
中3で極真空手を習い始め、高2でゾーンに入ることを修得した。
フルコンタクト空手の練習の内容は、戦いだ。
戦いが自分を熱くする。
熱くなりすぎて世界が燃えてしまうんじゃないかと思うくらい。
脳内麻薬って、エンドルフィンなの?
よくわかんないんだけど。
けど、エンドルフィンよりもアドレナリンの方がはるかに良い。
空手の試合なんてものは、定期テストみたいなもんだった。
「リラックスして練習通りにやろう」
とか、指導者は言う。
そして練習通りにやって、大体気が付けばいつの間にか勝者になっていた。
僕はこれを経験してきたから言える。
「強いって、すごく良い。躁鬱があるとかないとか、そんなのどうでもいいくらい。」
なので強くなりたい。輝きたい。
うまくいった時のうれしさや楽しさは、かけがえないのないものだ。
空手やボクシングは楽しかったなあ。
でも一方で、ピアノはそこまでうまくいかなくて、ため息がでる。
2022年の計画は前半の半年で『ルートビアーラグ』の曲を完成させ、後半で気持ちを切り替え物販事業を成功させることだった。
けれど、ピアノは途中から無理ゲーになり、最近は一日60分前後の練習に落ち着いており「当分の間は完成できなくてもいいや」みたいな状態になった。
計画は、今冷静に振り返れば非常にリスキーであり、さらに結果的に大きく失敗した。
残ったものは、8割くらい弾けるようになっただけ、というのと、カメラの知識をもうちょい得たのと、少しの写真のスキルくらいだ。
まさかこんな一年間になるとは。
タイムイズマネーだ。深い痛手をこうむった。
去年の今頃は想像もしなかった。
う~ん。でも、撮影アシスタントのアルバイトくらいはできるようになったんじゃないか、と思う。
そしてフォトコンテストを目指せるくらいにはなったんじゃないか、と思う。
ちなみにフォトマスター検定1級は合格したみたいだ。
プロカメラマンが人物撮影をする現場で、アシスタントをしてスキルを学べればいいな。
魅力的な写真を撮れるようになり、それをSNSで投稿したい。
どうせなら事業に利用できるようになろう。
写真をSNS集客に活用するのだ。
アルバイトするからと言って、やりたいことは諦めない。
もうひとつ言うと、成功したいことが成功できれば、そこに至るまで何年失敗したところで正直気にならないのだ。
もっともそれを理由にして自由に甘えて現実逃避して時間を溶かしてはいけないが。
もうそんなのはやめないといけない。
倒されても倒されても起き上がり、目標に挑むような人生を送りたい。
そのためには、年齢の数字なんてものをとことん気にしないようになりたい。
けど、最近少し、年齢の数字が気になっている。
それは何故かというと、数字が高くなったのではなく、体を鍛えなくなったせいで活力が低下して、若さを失った感がするからだと思う。
ここもいかん。
2022年の総括で反省すべき点はいろいろあるが、ここが一番いかんかもしれない。
今後は、体を鍛えなおすことを怠らないようにしよう。
死ぬまでずっと若く生きるんだ。
ちょっと話変わるが、みんな体を大事にしてくれ、まじで。
ストレスって、なめたらいかんぞ、死ぬぞ。
死んだら友人に申し訳ない、という感覚を共有してほしい。
最近、友人がなくなった。
本当につらかった。
10年位前、僕は精神疾患のひどさのピークで、人間関係を壊しまくって生きていた。
そうしたら身の回りのいろんな人が僕を突き放していった。
けどその友人は僕のことを突き放したりはしなかった。
その友人とは、僕が大学に入って知り合った。
学生運動っぽいコミュニティで知り合った。
左翼界隈ってのは、大体、ゆる飲みして話をすると、何かある度に、批判ばっかりを話す。
批判、批判、の話が延々と続き、僕は楽しくなかった。
僕は性格が悪いものだから、気が付いたらつい、嫌味っぽい皮肉を言ってたりした。
その度にしょっちゅう場が荒れたものだった。
そうしたら嫌われたり見下されたりばかりで、人間関係が楽しくなくなっていった。
僕がおかしなことを口走ってばかりだったから。
けれどその亡くなった友人は、少し変わったところもあり、僕に波長を合わせて来た。
僕が支離滅裂なことを言っても、離れずに聞いてくれたり話してくれたりした。
おもしろくてやさしくて、本当にいいやつがいなくなってしまった。
お通夜とかで、その友人の地元に行って、いろいろ語り合った。
けれどぽっかりと胸に空いた穴がうまることはなく、悲しさを抑え込んでも、虚しかった。
僕が言いたかったことは「死なないでくれよ」に尽きるんだが、それを言うとご遺族や地元の人がいる前で、亡くなった人に厳しいことを言うみたいだから、その時は言えなかった。
ただ、死なないでくれ、と思うばかりだ。
死なずに生きて行こう。
幸せになれるかもしれない。
うむ。
僕はまずここで、お金の面での危機感のこわれたスイッチを直さなければならない。
生きていくからだ。
**才の一年間はどうすべきか。
まず、自分は自分を100%コントロールできないことを自覚すべきだ。
そして、コントロールできる時間の量と、コントロールが保障できない時間の量がある。
前者の時間帯の時に、すなわち、気分の調子が良い時に、お金を稼ぐ行動をするよう自分自身を運転するようにしよう。
実際、去年英検1級をとったが、勉強の仕方はそんな感じだった。
今年の一年間は、とても貴重な、やる気のスイッチが入った時間を全部、バイトとかすることなく、ピアノとかお花を育てるとかピュアな趣味に捧げてしまった。
生きていく以上、一番好きなことをするには、その前にお金を作る作業を終えてないといけないのだ。
これも、逃れられない生きることのしんどさだ。痛い。
これからは趣味でしかないことからは、一歩距離を置く。
実は、お花を育てるのに大変な時間を最近割いていた。
ガーデニングは、なめてはいけない。
知識が少し足りなかったら、お花はあっという間に死ぬ。
水をやりすぎる等、少しでも間違えたら、死なれてしまう。
種から育てるときに、計画作りをしっかりと詰めていないと、滅茶苦茶増えすぎてとても大変なことになる。
最近、僕は実はそんな状況だ。
だれか、お花もらってください。
たくさんあります。
本当にこりた。
これからは、お金を稼ぐこと以外のことを、大きくし過ぎないよう気を付ける。
ただピアノは『ルートビアーラグ』を弾けるようになるまで一日1時間くらいはやるけれど。
弾けるようにならないと、今年費やした時間がもったいなさすぎる。
お金を作る行動を最優先にする。体を鍛える。ピアノは続けるが、ほどほどに。
これからの一年間はこうしていく。
躁鬱の症状は、処方されたお薬で対処療法的に抑えてる。
けれど、お薬だけでなく、運動することで症状を緩和しても全然良いのだ。
良い健康習慣を高いレベルで維持し続けていれば、3~4年後には躁うつ病は半減して10年後には完治したりとか、するのかな。
けど、それくらいをイメージして、体を大事にした生活をしていこう。
話かわるけど、去年の誕生日の時の総括の文章を読んだら驚いた。
これ、僕の文章なのか、すごいな。
僕は、偏見というものがとても嫌で、一方で、理解してくれるというのがとても好きだ。
そのせいなのか、好きな曲の好きな歌詞を、一緒に共感してくれると、なんだかとてもうれしい。
サイモン&ガーファンクルの『ボクサー』という曲が大好きであり、胸にささる歌詞の部分を去年の総括に書いていた。
『ボクサー』という曲は伝説的な名曲であり、サイモン&ガーファンクルのファンはもっともこれを推す。
2番目は『サウンドオブサイレンス』だ。
ポップソングとしての売上は、『明日に架ける橋』や『スカボロフェア』がトップランキングだったりするが、会心の一撃は『ボクサー』なのだ。
ところで、『ボクサー』以外にも僕が推す曲は、ボブディランの”Shelter from the Storm”という曲だ。
歌詞の内容は、厳しすぎる世界を泥水すすって生きていくようなもので、『ボクサー』に近いかもしれない。
shelter from the stormは直訳すると嵐からの隠れ場所だが、歌の内容としては、苦しい生のなかでのやすらぎみたいなものだ。
やすらぎに飢えながら生きる人間を描いた歌なのだ。
だから僕は共感しやすい。ただ歌詞で一番好きなのはshelter from the stormではなく
Well, I’m livin’ in a foreign country but I’m bound to cross the line
Beauty walks a razor’s edge, someday I’ll make it mine
というところ。
今から国境線を超えていく。
美はカミソリの刃を歩く。
いつかそれを手にしてみせる。
ていう内容。こんなに良い歌って、そうそうないよ。
この曲や『ボクサー』を聞いたことない人は聞こう。
ただ、歌詞を理解しようとしないと、魅力が8割減だけどね。
そういえば大学5回生になって勉強しよう、と決意したとき
『美はカミソリの刃を歩く』
という言葉を胸に刻んだことがあったな。
あの強かったころ、本当に良かったな。
戻ろうと思えば戻れるのかな。どうなのかな。
その答えはすごく気になるが、風の中って感じで、そして人生は続いていく。
どっちに転ぼうと生きるしかない。
よし、今日は友達に誕生日を祝ってもらおう。
新幹線で東京にいきます。
数日間、羽を伸ばして遊ぼう。
隙間時間にKindleで写真のスキルの勉強をしよう。
誕生日の自分へのお祝いが終わったら、死んだ父親の遺影をもらいに父方の親戚の所に行こう。
夢よ。かなえ。
経済的な自由を獲得したら、物理や情報科学とか、楽しそうな勉強や研究に没頭するような、研究者のように生きていきたいのだ。
自由に、住みたいところに住みながら。
読んでくれてありがとうございました。
では、**才の僕をよろしく。
メリークリスマス。
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