2023年の時の誕生日の総括

メリークリスマス。

**才の誕生日を迎えた。


どんな一年間だったかを振り返ってみる。  


人生をより良くしよう、と意識を高く保った一年だった。

毎月総括をしながら過ごしたが、こういうのははじめてだった。


しかし躁鬱の影響で、生活を自己管理したりするのがうまく出来なかった。

行動量は、普通の社会人の4分の1くらいだと思う。


意識を高く保ったからと言って行動的になれるわけではない、

という事がわかり勉強になった。


人生をやり直したいのに動けないというのは悲しい。

自分の行動をうまく管理できないのだが、もっと行動して生産的になりたい。


しかしそうするには、自分には環境の力が不可欠なんだと悟った。

やる気を上げるんじゃなく、やらざるを得ない状況に身を投じる事が必要なのだ。


しかし、そうするためにはどうすればいいかわからなかった。


幸い、と言っていいのかわからないが、1月から仕事が始まる。

そして1月の終わりに引っ越ししないといけない。


なのでこれからは、ダラけずに動いていかざるを得ない。

ここで失敗したら、耐えられないくらい、失うものが大きい。


仕事は絶対に失いたくない。

僕の大好きな金融取引の仕事だし、給料は時給3千円以上あるし、

1日4時間だけであり、在宅で働ける。


ここから先は、きちんと動く。

誓います。


いままで一年間の振り返りに話を戻すと、

少ない行動量でやったことは、主に写真活動だった。


写真に関しては、少なくとも1年前と比較すると、かなり上達している。

夜景写真や山岳写真が上達した。


このことはとてもうれしい。


良い写真は感動を生み出せる。

美を創り出せる。


もちろん、まだまだ謙虚さは大事なのは分かっているが、

芸術を創れるということはとても良い。


これは、僕の人生のこれからを幾分か支えてくれると思う。


今年いろいろあった中で一番うれしかったのは、

どれかわからない。


良い写真が撮れてうれしかったことは、点々とある。


写真ではないが一つ挙げると、2月に文部科学大臣賞をもらった。

僕は承認欲求が高いから、こういうのは本当にうれしかった。


人に認められるとうれしい。


一方で今年は、人間関係でつらい事があり、本当につらくて取り乱した。

そういったつらい事は、今年が特別なわけじゃなかった。


去年くらいまで、生きているだけで何故か心理的に苦しいのだが、何が原因なのかわからなかった。

しかし2年間くらい定期的に心理相談をしに行くにつれて、何が辛いのかわかってきた。


そのうちの一つに、僕は人から対等に扱ってもらえないと、

ひどくつらくなるというのがわかった。


何がつらいのか、以前までわからなかったのが今年くらいにわかってきて、たまってきた悲しさが、どっと押し寄せてきた。


僕にとって、対等に見てもらえないことはつらすぎて、

耐えられないことがちょくちょくある。


ただただ見下され、八つ当たりの対象にされることもある。


偏見を持たれ、僕の見えないところで増幅され、それがいじめに発展したこともある。


僕にも言い分があるような状況下で、トラブルが起こってしまった時に、過失はみんな同等であった場合でも、一方的に僕が悪いものと決めつけられたこともある。


こういう時は見えない所で、一方的に批判されるのはこわい。


噂に尾ひれがつくことは本当に多い。

そうでなく真実が伝えられたとしても、都合の悪い情報は切り取られ、恣意的に話のポイントを僕が不利な方に誘導されることも多い。


僕はやさしい人間でありたいから、自分を制御出来るうちは、

嫌な目に遭っても歯向かうことはしたくないからしないようにしてた。


けれど弱すぎてすぐに制御不能になってしまい、そんな自分がいて悲しい。


制御できなくなったとき、どうなるか。

他人の評価の中で、僕が悪者になるのだ。


こうして生きづらくなる。


やさしい人間でいたいのに失敗する。

やさしくなりたかった。


僕が育った実家の家庭環境は、最悪だった。

実家には母方の祖父と祖母がいたが、理不尽で暴力的かつ高圧的な所が醜かった。


なので僕自身はどこまでもやさしくなりたかった。


祖父と祖母は、僕が生まれることを望んでいなかった。

この二人からすれば、僕の兄である長男が生まれればよかったのだ。


長男さえいれば跡目を継がせることができる。

そして僕の両親が離婚すれば、祖父祖母の元へ長男は来る。


なので祖父と祖母は、僕の両親へ嫌がらせを繰り返して離婚に追い込み、

長男を囲い込んだ。


けれど祖父祖母にとって、僕が生まれたことは損害だった。

僕が生まれることを望んでもいなかったし、僕を養育するとなれば、自分たちが贅沢に使いたいお金が大幅に目減りするからだ。


もっともそのお金は、父親が働いて稼いだお金なのだが。

「家計を管理する」の建前で、お金を吸い取っていつも結構ピンハネしてたのだ。


こんな最悪な家庭で生きていたから、優しさが人間には本当に大事であると、いつの間にか僕の胸に刻み込まれた。 

 

けれど生きていると理不尽だらけで、やさしくいることがしんどい。

自分が苦労してやさしくなろうと努力していると、なぜか無意識的に、他の人もやさしくて良い人間であるべきだ、という思い込みにとらわれてる時がある。


やさしい人間でいることを、つい無意識に他の人にも求めてしまう。


人間というのは人それぞれ自由であり、いろんな性格の人がいる。

「人は親切じゃないといけない」みたいなのを強要することはできない。


人は自由でありそれゆえに、他者を傷つける人がいくらでもいる。

世界では、偏見や言葉の暴力などは日常茶飯事である。


そして僕はそういった世界にうまく同調できない。

同調できなくて人間関係でつらい目に遭うと取り乱してしまう。

まるで何かに裏切られたみたいに。


周囲の人間にとってそれが、僕に対するいじめのきっかけになりやすい。

付け込む隙を、何度反省しても作ってしまい、それを無くすのが無理。


やさしい人間でいたくて、他人に対して強い態度をとれない。

僕は人間を怖がることが多いから、それも僕が狙われやすい点となる。


やさしくありたいし、周囲に温かく囲まれたいのに、敵が出来てしまって悲しい。


僕は、他人に敵意を感じると、無意識に反芻が起きてるんだと思う。

実家で僕に虐待やDVをしてきた最低の人間を思い出して、

それをその他人に重ねてるんだと思う。


人間関係で嫌な思いをすると、反芻して増幅してしまう。

勝手に起きてしまい制御できない。


なので僕自身が、他人にいじめられる自分を作ってしまうし、

それを何度反省しても、どれだけ繰り返しても、変えられない。


他にも僕は、多動性の傾向がある。

まず間違いなく、持病の躁うつ病に起因している。


衝動的発言をする傾向も実感してるし、

それをやめようとどんなに頑張っても直らないことも実感している。


僕の双極性障害は1型と2型がある。

2型の双極性障害があるから、ADHDの症状を併発しているのかもしれない。

あるいは双極性障害と同時にADHDを患っているのかもしれない。


ADHDや統合失調症と他人に認められるのは、本当に怖い。


衝動的発言がこういった症状のせいだと他人に思われたら、

諸悪の根源と見なされると思ってる。


僕が、病気が原因で仕方なく、誰かを不快させた状況では

様々な怖いケースがありえる。


病気が原因だとかは関係なく、おかまいなしにバッシングをしてくる人は多い。

世の中はこんな暴力的な人間だらけで、病気を患いめぐまれてない人を理解する気もないのだ。


病気が原因で仕方がないんだ、と理解されたとしても

「じゃあ出て行けよ、いなくなれよ」と言われることもよくある。


一方で、良心的にちゃんと理解されることもある。


しかしそういう時でも「じゃあ仕方ないから許してやる」

かのように上から目線で見られるのは、本当に苦痛で怖い。


もっとも、自分の多動性等の症状を正直にカミングアウトするのは、リスクの方が一方的に大きい。


僕の友人でなくとも、僕が双極性障害なのは広く知れ渡っている。


双極性障害なのを分かったうえでバッシングしてくる人間に対して、

多動性や衝動的発言がある症状をカミングアウトしても、

理解する気があるのかわかったものではないのだ。


なので多動性障害があると周囲に認められるのは、とても怖い。

人間はこわい生き物である。


ぼくが原因に絡んだトラブルは様々にあるが、正直にぼくが自分の非を認めて反省できていることは、

本当に少なく、ほぼない。


実際自分としては、不可抗力で仕方がなかったことばかりしかないのだ。


一方でトラブルの責任の一旦となっている人でかつ、

精神病でも何でもない健常者がマウントをとってくるのも理解できない。


それでも、こんな僕でも今でも深く後悔し、反省していることがある。

小さい頃、勉強が苦手な子を馬鹿にして傷つけたことだ。


小さい頃にそんな風に傷つけられたら、後の人生に影響が出るに決まっている。


僕は、勉強が苦手な子の気持ちは分かろうとしなかったし、

他人事のように思ってた。


他人事のように思う、というのは本当に怖い。

そして今反省して謝っても遅いのだ。


相手からすれば、そんな昔のことは忘れて気にしてないだろう。

僕の申し訳ないという気持ちは、受け止められることはないわけであり、悲しい。


また別の反省してることだが、相手の容姿や性別や年齢で、

相手を邪険に扱った事がある気がする。


そういうことはしないように気を付けていたから、あまりはっきりとした記憶はない。

けれど、そういうことをした気がするのだ。


おそらく、してないということはない。


これも申し訳ないと思ってる。

容姿差別って理不尽だし、傷つけ方がひどい。

相手は何も悪いことなんてしてない。


それどころか、容姿をコンプレックスに思ってる人が、

容姿を理由に差別されたとなると傷つくだろう。


こんな差別による加害者にならないよう、改めて気を付けよう。


いろいろと書いたけど、生きづらさがあっても、最後の最後には、

自分の足で立って生きていくしかない。


友達が本当に少なくていつもさみしい。

けれど孤独と戦っていかないといけない。


僕は孤独から逃げようとして、友人になんでもかんでも求めようとしてた気がする。

全く気を付けずに。それが良くなかった。


「格差社会」というワードはいつだってトレンドになってるが、

愛される者と愛されない者の格差は、本当に厳しいものを感じる。


世界は不公平だが、その世界を生きないといけないから、

この格差に耐えないといけない。


「寂しさ、優しさ、上流階級、悪評。あなたは王座を求めて戦い、ひとりで旅をする。誰にも知られぬままゆっくりと力尽きていき、考えているひまはない。」

というボブディランの名言がある。


孤独と戦わないといけないのだ。


僕は写真活動を少しずつ続けていこうと思う。

もちろんまだまだ半人前なのはわかってるが、写真で美を創りだせるようになれて良かった。


美があれば孤独の苦しさがなくなるわけではないのは分かってる。


人と集まって一緒にいると癒されるから、人と一緒にいたい。

それもわかってる。


しかし美を創り出すとそれは、人と群れるだけでは生まれない、価値あるものだ。


美の良さを言葉で表すのは難しい。


ボブディランはこう言ってる。

「美はカミソリの刃をあるく」


この言葉から僕は

「孤独の苦しさがあったとしても、美は動じることなくそこから輝いている」

というメッセージを感じる。


僕はつらくても死ねないのだ。

死ぬことはとても怖い。


死んだ後に「死んでくれてよかった」と心の底で思われるのは怖い。

そんな人はあまりいないと思うが、一人でもいると思うと怖い。


死ぬ寸前の刹那に、その思いが頭をよぎると死ぬに死にきれない。

だから僕は、自分で死んで終わりにするということができない。


本当は生まれたくなかったけど生まれてしまったから生きるしかない。


人間に過度な期待を持つと迷惑に思われるのはわかったから、それはもうしない。


幸運の連鎖なんてめったに起きないが、不幸の連鎖は簡単に起きる。

生きづらさは、何度乗り越えてもまたやってくる。


けれど必死に生きるしかない。

無駄に生きるんじゃなくて何かのために生きたい。


まあ、長々と思ったことを書いたけど、なぜか誕生日だけは楽しいのが救いだ。


クリスマスイブでもあり、自分も世界もムードが良い。

今晩、行きつけのバーで誕生日のお祝いをしてもらうことにした。


それでは、メリークリスマス。


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