徳川慶喜の壮絶な人生①

徳川慶喜は、名君か暗君か評価が激しく分かれる人物です。

大政奉還をした名君と称えられる一方、鳥羽・伏見の戦いで敵前逃亡した暗君という評価も受けています。徳川慶喜の人生は一体どういうものだったのでしょうか?

徳川慶喜は、1837年(天保8年)に水戸藩9代藩主徳川斉昭の7男として江戸で誕生しました。この年には、大塩平八郎の乱がおきたり、将軍が11代将軍徳川家斉から12代将軍徳川家慶に変わった年でした。

慶喜は生後7ヶ月で、父斉昭の意向で江戸から水戸に移ることになり、そして斉昭から水戸学を叩き込まれました。水戸学とは天皇を敬え(尊王)という考えです。これが慶喜の人生に大きな影響を及ぼすことになります。

慶喜は小さい頃から聡明な子として知られ、時の将軍徳川家慶に気に入られて1847年に一橋家を相続しました。このときに家慶の「慶」の1字をもらい慶喜と改名しました。
 松平七郎麻呂→松平昭致→徳川慶喜の順番に改名しています。

1853年黒船が来航し、約3週間後に家慶が亡くなると、息子の徳川家定が13代将軍になりました。しかし、家定には子供ができる見込みがなく将軍継嗣問題がおこりました。候補となった人物は、徳川慶福(後の徳川家茂)と徳川慶喜でした。ただし慶喜自身は将軍になりたかったわけではなく
斉昭に「骨が折れるので将軍になって失敗するより、最初から将軍にならないほうがいい」というような内容の文を残しています。

血筋が近い慶福を推す南紀派と、能力が高い慶喜を推す一橋派が対立しました。
(家定と慶福は従兄弟同士という比較的近い関係であるのに対し、
家定と慶喜は家康まで遡らないと血縁が繋がらないというすごく遠い関係だでした。2人は18親等離れており今の時代なら完全に他人扱いです。)

南紀派には井伊直弼、松平容保、大奥の人たちが
一橋家には島津斉彬、阿部正弘、徳川斉昭、松平春嶽がいました。

しかし阿部正弘が亡くなってしまったことから一橋派の力が弱まり、さらに井伊直弼が大老に就任したことから南紀派が完全に優勢となり、将軍は慶福に決まりました。このときに慶福は家茂に改名しています。直後に家定が亡くなり1858年13歳で家茂は、14代将軍になりました。

その後、島津斉彬は抵抗するために兵を率いて上洛しようとしたが、途中で亡くなってしまいます。

井伊直弼は大老就任後に、朝廷の許可を得ず日米修好通商条約に調印しました。

将軍継嗣問題と日米修好通商条約の無断勅許を批判する声が高まりました。
これに対し井伊直弼は反対派を弾圧しました。これが有名な安政の大獄です。

その結果、斉昭は永蟄居、慶喜は謹慎の処分を受けました。1860年井伊直弼は恨みを買い、桜田門外で水戸藩士によって暗殺されることとなったのです。
これが桜田門外の変です。

桜田門外の変の後、慶喜の謹慎が解除されました。(しかし斉昭は永蟄居が解けないまま1860年に亡くなってしまいます。)

1862年島津斉彬の弟の島津久光(2人は異母兄弟)が朝廷から勅令をもらいそれを幕府に突きつけて改革を行わせました(文久の改革)。この結果、慶喜は将軍後見職につき、まだ幼い家茂の政治の補佐を行いました。
ここから慶喜は本格的に政治に関わるようになります。




              (続く)



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