匂い 7/24

日記に固有の名前をつける試みは飽きたのでいったんなかったことにする。


梅雨が明けない。僕は梅雨の季節が嫌いだ。そもそも梅雨が好きな人っているのか?もしいるのであれば、おそらくその人は最近、言の葉の庭を見たのだろう。それか前世が河童だったのかもしれない。とはいえ、僕は別に雨降りそのものが嫌いなわけではない。ただ洗濯物が干せないのが嫌なのだ。その問題さえ解決すれば、梅雨に対して特に文句はない。いや嘘だ、文句はもう一つある。匂いだ。

高温多湿の環境は、生き物や植物の匂いをいやに強調する。当然、他人の匂いも強調される。生乾きの服を着ている人もいる。そういう匂いで満ちた街を歩くのは、なかなかにストレスだ。もちろんその匂いの中には、自分が原因のものもあるんだろうけど、たいてい自分の匂いは気にならない(他人を不快にしているのではないかという気づかれを除く)。


コロナが猛威を振るって外出自粛が叫ばれた期間が、2年間くらいあった。その間、律儀に僕は家にこもっていた。そしてついに自粛が明け、外出をするようになってまず思ったことは、「電車が臭い」だった。というか、電車も大学も人が密集するところはどこも臭かった。密を避けすぎて、人間に匂いがあるという当たり前のことを忘れてしまっていたのだった。


村上龍のコインロッカー・ベイビーズを読んだ。村上龍の情景描写はとても生々しく、五感を強く刺激するものだった。手触り、光、音、そして匂いを使ってリアリティを演出する。特にこの匂いは印象に残った。人間の発する匂いがやたら描写されるのだ。それはどこか人間の生物的な部分を思い出させる。インターネットをやっていると忘れがちだけど、人は別に意識だけで生きているわけじゃない。人間はあくまで動物だ。今を生きて、いつか死ぬ。これも当たり前過ぎて忘れてしまっていたことだ。東堂?

それはそうと、匂いの表現は不思議だ。これは完全に体感なんだけど、音や視覚の描写は脳内でイメージされるが、匂いのイメージは鼻で起こる。これらには大きな差がある。脳内でのイメージはあくまで想像の域を出ない。しかし、匂いの描写は鼻の感覚を誘発して、本当に嗅いでいるかのような気になる。どうしてだろう。
スマホやテレビが音と映像を使うから、これらは脳内でイメージされやすくなっているとか?白黒テレビの時代は夜に見る夢も白黒だったなんて眉唾な話があるが、それなら匂いは?テレビに色はついたけれど、匂いはまだついていない。確かに夢で匂いを気にしたことはないかもしれない。
音と映像は匂いと違って言葉も伝えられる。

なんかとっ散らかってきた。こういう知覚に関する物事は、他人と比較のしようがないので詳しいことはわからない。本当は本の内容についても書きたかったけど、そっちはもっとまとまりそうになかった。面白い感想文を書ける人はすごい。

なんか思ったよりも長くなった。おわり。

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